連載を始めたばかりで、時事ネタに流れるのもどうかとは思うのだが、タイミングを逃すと、散歩道さんのところ等に、美味しい所を持って行かれてしまうので(笑)、息抜きにもなる事だし、その都度取り上げていきたい。
乞うご容赦。

それにしても、散歩道さんのところといい、zeong氏のところといい、他人の解釈や主観が入り込む「余地」のある出版物ではなく、原史料による情報の共有が出来るというのは、便利な世の中になったものである。
これだけ原史料に簡単にアクセス出来る世の中だと、学者の皆さんや、扇動家の皆さんも大変だろうなぁと、つくづく思ったりするわけである。

以上、雑感。


明成皇后の初の埋葬地「洪陵」を確認

乙未事変(1895年10月8日、明成皇后(閔妃)暗殺事件)で暗殺された明成(ミョンソン)皇后が当初埋葬される予定だった、東九陵(トングヌン、史跡193号 / 京畿(キョンギ)道・九里(クリ)市・仁倉(インチャン)洞)内に作られていた元の洪陵(ホンヌン / 明成皇后の墓陵)が初めて確認された。

ファン・ピョンウ韓国文化遺産政策研究所長は25日、「崇陵の右側の丘で石物(ソクムル、墓の前のに置かれた石の飾り物)が発見されたという通報があり、現場と各種文献を照らし合わせた結果、位置が確認された」とした。

この場所からは封墳の周りに並べるために使ったと見られる欄干石柱(ナンガンソクジュ)や童子石(トンジャソク)など石物3点が発見された。
この石物は地中に埋まっていたが、雨水などにより土が流れ落ち、姿を現した。

しかし明成皇后陵はこの場所に建立されなかった。急変していた当時の政治状況のためだ。
乙未事変で執権した金弘集(キム・ホンジプ)内閣は、暗殺事件の2日後、暗殺の事実さえ発表しないまま、「王妃が人民を搾取した」として皇后を庶民へと廃位させ、50日間後に暗殺の事実を公式発表した。

しかし陵を建立する工事の真っ最中だった1896年2月11日、俄館播遷(アグァンパチョン、乙未事変の後、身辺に危険を感じた高宗(コジョン)と王子が1896年2月11日から約1年間、王宮を捨てロシア公館に避難した事件)により、高宗は金弘集らを“乙未4敵”に定め逮捕令を発令、内閣は崩壊した。

明成皇后陵は高宗が大韓(テハン)帝国皇帝に即位(1897年10月12日)した後の1897年11月22日、現在の洪陵樹木園(ソウル市・東大門(トンデムン)区・清涼里(チョンリャンリ)2洞)にに建立され、明成皇后はここに葬られた。
この後、高宗が1919年1月21日に死去すると、同年2月16日、京畿道・南楊州(ナムヤンジュ)市の現在の洪陵に移された。

韓永愚(ハン・ヨンウ)、 李泰鎭(イ・テジン)ソウル大学教授(国史学)は「明成皇后陵の建立と改葬という史実は紆余曲折の多かった朝鮮末期の歴史を体現している」とし、「東九陵内の洪陵を近代史教育の場として保存すべきだ」と指摘した。



最近、ソウル大学国史学科の李泰鎭教授が少しでも絡む報道を見つけると、つい、その発表内容に目を凝らしてしまう自分がいる。
一時、明智大学教授の授崔書勉教授に浮気してみたものの、全く喰い足りない。
ある意味私は、李泰鎭教授を愛しているのかも知れない。(笑)
残念ながら、今回の記事における李泰鎭教授は、コメントを寄せただけで、活躍の場は無いのだが。

記事の内容も、大した事がない。
明成皇后の墓と比定した根拠について、報道内容ではさっぱり不明だからである。

そんな中で金弘集の名は出ても、大院君の名が出てこない事は、非常に興味深い。
そして、俄館播遷(露館播遷)についても【こちら】で述べたとおり、簡単に言えば内部抗争の結果である。

そういった意味においては、朝鮮末期や近代史に限らず、昔から現在まで連綿と続いている、『党争の歴史』を体現しているのだろう。
それに日本を含む外国勢力が絡んだ事自体によって、その人物の評価基準が別れるとすれば、実に愚かな事ではある。


さて、去る4月19日付けで、李泰鎭教授に、バファリン作戦の最後を飾る『解説』が送付された。【こちらから】
当該NAVERのスレッドでも述べられているが、私のブログにおいても、日米韓の協力者に改めて謝意を表し、同時に本作戦を見守って頂いた各位に、御礼申し上げたい。

これで、一連のバファリン作戦は、本当の終わりを告げるだろう。
李泰鎭教授が、再返答を行わなければ、という条件付きではあるのだが。(笑)