史料の付日に現実の日にちがあっさり追い付かれた昨今、いかがお過ごしでしょうか?(笑)

ってことで今日は、アジア歴史資料センターの史料から。
『1 〔明治42年〕12月7日から〔明治42年〕12月28日(伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件)(レファレンスコード:B03050610300)』から、朝鮮問題同志会に関する件についての1909(明治42年)12月21日付『乙秘第2818号』。 【画像】


朝鮮問題同志会の件

本日午后4時30分より、桜田倶楽部に於て朝鮮問題同志会を開く。
出席者は、

山田喜之助 権藤震二 小川平吉 横矢重道 望月龍太郎
三浦逸平 五百木良三 福田和五郎 長谷川芳之助 大谷誠夫
塩谷恒太郎 霧島勘次郎 高橋秀臣 板東宣男 蔵原惟郭 高田三六

等にして、長谷川芳之助を座長に推し、朝鮮問題に関し曽根統監に与ふる警告書の起草について協議し、権藤震二執筆起草を終り、多少の修正を加へて決定し、次て首相以下各大臣の訪問委員を選み、小川平吉、河野広中、大竹貫一、山田喜之助、長谷川芳之助の5名と決し、午后6時30分散会せり。

追て警告書は、来る24日頃を以て発送する趣きにて、目下極秘密に附しあり。



えーっと、まだ紹介してないのは誰だっけ?(笑)
今までメンバー紹介したのは、11月16日のエントリー11月26日のエントリー12月5日のエントリー12月10日のエントリー12月11日のエントリー12月14日のエントリー
まだ紹介されてないのは、まずは権藤震二。
日本電報通信社(現電通・共同通信)の取締役であって、後にシーメンス事件で連座する人物である。

塩谷恒太郎、霧島勘次郎、板東宣男は詳細不明。
高田三六は、西南記伝の平岡浩太郎伝等に一度名前を見ることができるものの、やはりこれまた詳細不明の人物である。

で、朝鮮問題について曾禰統監に対する警告書を出すらしい。
さらに首相以下各大臣も訪問する、と。

この警告書、どのような内容だったか見てみよう。
1909(明治42年)12月22日付『乙秘第2827号』より。 【画像1】 【画像2】


朝鮮問題同志会警告書の件

昨日、桜田倶楽部に於て朝鮮問題同志会員会合し、桂首相及び曽根統監に提出する警告書起草に就て協議する処ありたる趣は既報(昨日乙秘第2818号)を経しが、該警告書は左の如しと云ふ。

(・・・・閣下)韓民の塗炭に苦しむや既に久し。
而して我れ宗主権を行ひしより、其弊政を更革するもの少なからずと雖も、多くは制令の末に馳せ治本の英断以て徳沢の韓民に普洽するものあらず。
是れ吾人の深慨する処にして、而して韓人志ある者の堪ふる能はざる処也。
夫れ、韓国の皇室及其政府者は累代悪政を施し、其民を陥溺し、国破れ、人怨む。
而して統監府の施設の直接韓民に及ばざること、何ぞ啻に隔靴掻痒のみならむ。
韓人中の有志者決然起て合邦の議を唱へ、其民を率ひて我皇化に霑はんと願ふ。
其情誠に苦く、其声実に哀し。
顧さに万已むを得ざるに出づ。
我、宜しく惻怛■惕の心を以て之を聞き、慎重以て万遺策なきを期すべし。
若し今にして断せずんば、大局の事測り知るべからず。
何ぞ是を提唱するものの何人にして、之に和するものの誰たるを問ふの暇あらんや。

側に聞く。
我統監府は合邦論者に対して頗る猜疑を抱き、而して韓政府は彼等を迫害して至らざる所なしと。
是何等の亡■ぞ。
奏議の採否の如きは別論に属す。
何ぞ是れが進達を拒める其理由なきや甚し。
彼の合邦の議の果して韓民一部の間に止まるべきや。
我は終に開国を風靡するに至るべきや。
唯だ当に彼等の為すに一任すべし。
断じて韓政府及不逞の徒をして其横暴を恣にせしむる勿し。
今、小を以て大に合し、弱を以て強に帰し、野を去り文に化せむと欲して而して子来して我に赴愬す。
而して、我棄てて顧みすむは決して仁智の事にあらざるなり。(謹言)



まぁ、ツッコミ所は色々あるわけですが、「唯だ当に彼等の為すに一任すべし」って・・・。
確実に失敗しますよ?(笑)

で、ついでなんでもう一丁アジ歴から朝鮮問題同志会に関する史料。
1909(明治42年)12月22日付『乙秘第2821号』より。 【画像】


河野廣中の談

朝鮮問題同志会長河野廣中が、合邦問題に関し語る処、左の如し。

我が対韓政策たるや、軟柔を主とせるより遂に密使事件となり、又伊藤公の横死を来たし、荏苒今日に至れり。
此期を以て高圧手段を加へ韓国を附庸となすべく、一進会の提唱は其機を得たるものと信ず。
密使事件の際、各国が口を揃えて韓国の門戸開放を唱ふるや、伊藤は、独立国たる韓国に対し門戸開放とは笑ふべしとて賛同せず、亦以て公が合邦を期せしを知るべく、当時自分は同士数輩と合邦を公に迫りしに、公は暫く時機の至るを待つべしと云はれたり。
然るに公の横死は同問題に頓挫を来たせるが、公の政策を踏襲せる桂侯亦合邦の必要を認むるを以て、一進会は気運を促すべく合邦を提唱するに至れり。
韓人の不平は到底避くべからず、此際断然合邦するを可とす云々。

以上。



ん。
やはり、対韓同志会の馬鹿連中って、そもそも大韓帝国が列強の利権の虫食い状態であり、しかもそれが前皇帝高宗を始めとする韓国政府が売ったものであるという認識が、かなり欠如しているような気がする。
外国人が一部の居留地に止まっていた日本とは、その法律は勿論、キリスト教を始めとする宗教や土地売買なんかの面も深く入り込んでる半島では、そう簡単にはいかないんだよねぇ。
まぁ、日露戦争でさえ強硬姿勢積極推進な連中ですので、欠如ではなくもの凄く軽視しているだけかもしれませんが。
西洋軽視で、一進会に合邦問題一任っつうのが彼等の主張なら、「馬鹿だな、お前等」しか言葉が出ません。

さて、次からは23日付けの史料に移っていきましょう。
まずは、合邦声明に反対してたのに、この大事な時期に刺された李完用の状態から。
1909(明治42年)12月23日発『往電』。 【画像】


李首相容体左の如し。

一.左肩胛骨内側上部剌創1ヶ所、深さ約10センチメートル、肺の損傷大ならず。
一.右腎臓部剌創1ヶ所
一.同腰部剌創1ヶ所

創傷は、何れも深く刳りたるものの如く、多量の出血あり。
脈拍手に応ぜず体温は35度以下に下り、瀕死の状態なりしに、応急の手当を施し、出血止み5、6時間を経て脈拍を数ふるを得、漸く危篤の症状を取止むるを得たり。

夜間体温脈呼吸食気尿通等、順調。
創所の疼痛は多少あるも悪候なく、一時の危険症状は全く防ぎ得たるにより、今後大韓医院に入れ、創傷其他に対し可成完全の治療を施すの準備を成し居れり。



脈も触れず、体温35度以下って・・・。
マジヤバイ所からの生還ですな。
これで、李完用が「あーそーかい。一進会に反対してもそーやって刺すのかい。分かったよ。」って合併決意したんだったら笑えるよなぁ・・・。(笑)

次は、12月19日のエントリーで日本へ帰る事となった、大垣丈夫に関する史料。
1909(明治42年)12月23日発『憲機第2570号』。


右一昨21日午後7時頃、大韓協会本部に至り、会長金嘉鎮以下尹孝定・呉世昌・権東鎮・洪弼周等を集め、自分は明後23日突然帰国す。
其要件は、時局問題に関し日本政府の意向探査の目的にて、帰国日数は約3ヶ月を要する見込なるを以て、不在中は地方支部より如何なる反対の協渉申出るも、此際慎重の態度を守り、唯だ時局の経過を傍観するに止め、自分より電報するにあらざれば、国内を動搖せしむるが如き行動は断じて為す可からずと、堅く諭示的告別をなせしに、一同之を諒し、毫も顧慮なく目的の任務を遂行の上、速に入京を待つ旨を述べ相別れたりと。
以上。



あのー・・・。
日本政府の意向探査の目的に帰国って・・・。

退韓命令は?(笑)


今日はこれまで。


合邦問題(一)   合邦問題(十一)   合邦問題(二十一)   合邦問題(三十一)   合邦問題(四十一)
合邦問題(二)   合邦問題(十二)   合邦問題(二十二)   合邦問題(三十二)   合邦問題(四十二)
合邦問題(三)   合邦問題(十三)   合邦問題(二十三)   合邦問題(三十三)   合邦問題(四十三)
合邦問題(四)   合邦問題(十四)   合邦問題(二十四)   合邦問題(三十四)   合邦問題(四十四)
合邦問題(五)   合邦問題(十五)   合邦問題(二十五)   合邦問題(三十五)   合邦問題(四十五)
合邦問題(六)   合邦問題(十六)   合邦問題(二十六)   合邦問題(三十六)   合邦問題(四十六)
合邦問題(七)   合邦問題(十七)   合邦問題(二十七)   合邦問題(三十七)   合邦問題(四十七)
合邦問題(八)   合邦問題(十八)   合邦問題(二十八)   合邦問題(三十八)
合邦問題(九)   合邦問題(十九)   合邦問題(二十九)   合邦問題(三十九)
合邦問題(十)   合邦問題(二十)   合邦問題(三十)     合邦問題(四十)