どうしても、連載を始めると長くなってしまう傾向にあるわけですが、前後の流れが分からないと結局その史料の指す意味も不明確な場合が多いわけで。
これに関しては何度か弁解(笑)してきた通りであります。
ただ、長くなるのは不本意ですし、何より自分自身で延々と状況整理するのが、直接関連性が無い事もあって面倒臭い。
自分ですら興味無い史料を、「いや、これ読まないと細かいニュアンスとか分からないから」と押しつけるのも、正直どうかと思ってみたり。
そのために、アジ歴が止まったら、分かりやすいように(『日編・安応七歴史』のように)過去の連載整理してみようかと思ったり。
色々と悩んでおります。(笑)

さて、愚痴はこのくらいにして、今日からは加藤増雄の韓国赴任時代の回想について。
連載になるわけですが、これは史料が長いから。(笑)
逆に言うと、どれだけ長く加藤が朝鮮と係わったか、という事なんですがね。
ま、そういうわけで史料はアジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』。
まぁ、これまでの連載なんかとダブる部分も多いでしょうけど、当然取り上げていない話題もあると思われ、その辺はちょっと楽しみに進めていきたいと思います。
それでは、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』より。

本官今般帰朝を命ぜられ、本日発程可致候に付ては、在任中事務経過の大要を爰に記述及具申候。

着任当時の状況

一.露国の地位

本官が、釜山領事より公使館一等書記官兼一等領事として京城に転勤したるは、明治29年4月小村公使在任中にして、時恰も彼の28年10月8日事変及び29年2月11日事変の後に際し、国王は露公使館播遷中にして、韓国上下の人心凡て帝国に背離すると同時に、所謂日本派なるものの勢力も全く地に掃ふて空しい有様なりし。
反之露国は、其公使館中に国王を擁護し宮廷と政府とを組織せしめ、頗る優勝の地位に立つのみならず、内にしてはウエーバー公使夫妻が巧に国王及び有力なる廷臣の歓心を買ひ、之れを自家薬籠中の物とせるあり。
外にしては、2門の大砲と2百有余の陸戦隊を国王保護の名の下に公使館の護衛に充て、其東洋艦隊若しくは其一部は常に釜山に仁川に元山に遊弋して、韓国に威臨するあり。
露国派なるものは、政府内外に跋扈し、露国は欲する所として得ざる莫く、言ふ所として行はれざるはなき有様なりき。
つうか、釜山領事もしてたって事は、足かけ3年じゃきかないんじゃ・・・。(笑)
ご苦労様です。

で、加藤がソウル赴任となったのは、露館播遷の最中である1897年(明治29年)の4月だった、と。
当然、親日派は全く勢力は地に墜ちて、親露派がのさばってた頃ですね。
ロシアは2門の大砲と200人余りの陸戦隊で公使館護衛。
さらには、東洋艦隊が我が物顔で朝鮮半島周辺に遊弋するような状態、と。
んー、そりゃロシアとの衝突を避けて、慎重にもなりますよねぇ・・・。

随分過酷な時に転勤しましたね。(笑)

此間に在りて

二.帝国の地位

如何を顧みるに、戦後の余勢と内政改革の余波とを以て、帝国人民の来住せるもの必しも少からずと雖、上国王より下庶民に至る迄、韓国の上下官民は挙って排日熱に浮され、国讎を以て之れを見るを以て、内地行商者は到処に暴徒の為めに殺傷せられ、港市にあるものも常に迫害を受け、帝国政府人民の言動は凡て猜疑と不快を以て迎へらるるを以て、権利の拡張は愚か唯々勢力範囲の維持に暇なき有様なりき。
加之10月8日王妃姐落事変以来、在韓諸外国人は挙って帝国人民に対し不快の感情を有し、却って国王保護の名を有する露国に謳歌する如きものあり。
故に帝国勢力の衰退前後、実に当時の如きものあらざりし也。
前半は、「金九は誰を殺したか」や「俄館播遷のその後」の前半辺りの話ですね。
まぁ、実に三浦はマズイ事に加担したよねぇ・・・。

三.露米仏公使の干係及其結果

露国固より形勝の地位に在り。
然れども、列国環視の中に於て国王を推して我意を行ふ、豈に恃む所なかる可けんや。
其の之れを支持したるものを米公使及び仏公使となす。
米公使シル氏は、其一個の私情より、又た其国民たる宣教師等が王妃姐落事件より、日本に対して不快の念を有し、排日本的行動をなすよりして、韓国に於て日本派露国派と相対立せる所、所謂米国派なるもの勢力を挙げて之れを露公使の政策を助成するに傾注するあり。
又た、仏国公使は本国政府の方針として、徹頭徹尾露国を賛助することに勉め、遂に露国をして不可■勢力の地盤を固めしめたるなり。
此間に於て、彼等は勢力の扶植と共に利益の獲得に鋭意し、露国は月尾島の炭庫敷地、咸鏡道慶源鍾城の鉱山採掘権、茂林欝陵の森林伐採権を得、仏国は京義鉄道の権利を獲、米国は日朝両国暫定合同条款の存するに拘らず京仁鉄道の敷設権を収め、同時に雲山の金鉱採掘権を得たり。
是れ凡て3使臣が相互協力して利益を分取したるに外ならず。
俄館播遷で利権売り飛ばしまくってた頃ですな。
月尾島の炭庫敷地については、1896年(明治29年)6月12日に租借月尾島地基約契を締結。
まぁ、ロシアの炭庫なんですが、周囲の石壁や建物についてはアメリカ商人「タウンゼント」が請け負い、日本人田中又太郎が下請けしてたりします。
咸鏡道の慶源郡と鍾城郡の鉱山採掘権は、ロシア商人「ニスチンスキー」が1896年(明治29年)4月22日に許可状発布を受けています。
茂林鬱陵の森林伐採権は、ロシア商人「ブリノ」が1896年(明治29年)9月10日に。
京義鉄道の敷設権は、1896年(明治29年)7月3日にフランス人「グリイル」が。
京仁鉄道の敷設権は1896年(明治29年)3月29日に、雲山の金鉱採掘権は1896年(明治29年)4月17日に、いずれもアメリカ人「モールス」に許可されています。

京城覚書の調印

排日崇露の傾向、上下を風靡せる最中に於て、在韓帝国軍隊及び我軍用電信を維持すること、亦た甚だ困難の事態なきにあらざりしも、幸に小村公使及びウエーバー氏は各本国訓令に基き協商の談判を重ね、漸く5月中に於て所謂京城覚書の調印を見るに至り、在韓帝国兵力及通信機関の現状を維持することを得たり。
小村=ウェーバー協定」とか、「電信守備兵」等の頃ですな。
加藤も現状維持と書いてるとおり、譲歩無しの協約。
この頃から風向きが変わってきたと思って良いでしょうね。


取りあえず、今日はここまで。