結構マメに取り上げてるなぁ、と冒頭から自画自賛してみたり。(笑)
まぁ、その分突っ込みどころも無く・・・。
寂しい感じはしますわな。

兎も角続き。
アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』より。

小村公使帰朝と臨時代理公使就任

然るに、小村公使は5月末日を以て帰朝せられ、本官は6月1日より臨時代理公使に上任せり。
就任第一に着手すべき事件は、朝鮮政府に対して暫定合同条款中、載明する所あるに拘らず米人モールスに其敷設権を許与したることを詰責するに在り。
本件は、当初より小村公使に於て異議を申■■置かれたることなれば、本官は之れに続きて談判を進行したれども、未だ要領を得ざる中に7月に至り
取りあえず、1ヶ月程度の臨時代理公使だったようですが、取りあえず暫定合同条款違反の詰問に着手。
小村時代からの継続ですね。
どうやっても、約束違反は免れないわけで。
まぁ、この件に関しては「京仁鉄道」でザッと取り上げております。
遙か昔の話なので、内容も不充分であり、忘れている方も多数居ると思いますが、一応。(笑)

原公使着任、京釜鉄道一件交渉開始

せられ、再び本件の談判を継続すると同時に、暫定合同條款に基き京釜鉄道敷設権を我に得んことを要求したり。
然れども、露国の勢力尚ほ強く上下崇露熱に酔へる際なれば、照会に対するに照会を以てし、要求に対するに拒絶を以てし、毫も之れを許容すべき模様を見ず、唯だ京仁鉄道一件に関しては、29年10月中に至り漸く形式及び辞意に於て不完全ながら、兎も角一通りの謝罪状を朝鮮政府より収めたれども、京釜鉄道の談判は一先づ中止し置きて、時機を待つ不得止に至りたり。
斯くて原公使は、在任僅に3ヶ月にして帰朝せられたれば、本官は爰に再び臨時代理公使の任に就けり。
後の平民宰相、原敬の公使就任。
というか、このブログでは結構居た気がしてたけど、たった3ヶ月だったのか・・・。_| ̄|○
対朝鮮政策としては、ほぼ放置政策だったわけですが、京釜鉄道の敷設権には積極的に動いてたようですね。
京仁鉄道で、謝罪状を得ていたとは初耳です。

依仁親王殿下御来京は悪感情融解の端緒を啓けり

明治29年10月24日、我艦隊扶桑、千代田2艦の仁川に寄港するあり。
之に乗組せらるる小松宮依仁親王殿下は、単に海軍将校の御資格にて大君主陛下へ御対顔の為め、司令官外10数名の海軍将校と共に御入京被為在るるや、当国人中窃に此機会を利用し日韓両国の交際を温め、依て以て悪感情を融解せんと力むるものあり。
而して、如此く我皇族の平時に当り当国に御来■被為在たるは、実に此回を以て嚆矢とするが故、陛下は大に満足せられ、其喪中なるにも拘らず精々歓待すべしと内命せられ、此に上下期せずして意気相投合し頗る優待を極めたり。
就中、同26日陛下は特に露館を出で慶運宮に臨御し、殿下を引見し、相互に御椅子を交へて長時間の御談被為在たる一事は、頻に感情に支配せられ易き当国人にあっては、著しき好感触を与へ、同親王殿下に対して敬愛の意志を表すると同時に、我々に向って稍々反目の念を去り、相親昵せんとするの念を起したるものの如し。
去れば、当時の情況に監みるに、小松宮親王殿下の御来京は、図らず感情回復一大有力なる端緒たりしは掩ふべからざる事実として、本官の心窃に記臆して忘る能はざる所なり。
後の東伏見宮依仁親王ですな。
殿下の朝鮮訪問に関しては、その訪問に係る身分等で少々あったらしい。
だから、「海軍将校の御資格にて」とわざわざ述べているんですね。
で、海軍将校が高宗に引見するためロシア公使館に足を踏み入れるというのもアレなので、高宗がわざわざ慶運宮まで出てきたという形になります。

2人は長時間談義し、「頻に感情に支配せられ易き当国人にあっては、著しき好感触を与へ」たようです。(笑)
まぁ、私は小村=ウエーバー協定と、山縣=ロバノフ協定の方が与えた影響は大きいとは思うんですがね。

還御運動の結果慶運宮に移御

2月11日国王露館潜幸以来、露国派勢力日々熾盛なると共に、之れが反対派たる大院君派若くは日本派は失意不遇の地位に立ち、動もすれば縲紲の厄に罹り、或は奇禍其身に及ばんことを恐れ四方に流亡するものあり、頗る苦心惨憺たる境遇に坐し、其反動は大臣暗殺を企て或は廃立を計る等、間々過激手段に訴へんとして果さず、為之疑獄事件の簇出するもの前後幾回たるを知らず。
形勢右の如くなるを以て、露公使は日露協商成立後、我より還御を督促するも以上人心不穏の情況を口実に借り、国王の安否心元なしとて容易に我勧告に応ぜず。
尤も、露公使をして如此き口実を造らしむるは実際に於て無理ならずことにて、独り露公使のみならず恐らく他の各国公使と雖ども如此場合に当って還御に同情を表せしむるは、頗る困難ありと信じたるを以て、本官は寧ろ当国人をして慎重なる態度を執り、秩序ある運動を為し、而して還御を実行せしむるの得策なるを察し、即ち此の方針を以て、一面は政府部内に有力なる議政金炳始及大臣趙秉世、鄭範朝に(大院君を経て)内意を致し、又一面には民間に有力なる閔泳駿、安駉壽、金宗漢、金嘉鎮に勧告する所あり。
官民歩調を一にして、極めて平和的に秩序ある措置を執らしむる事に盡力せり。
折柄遣露大使閔泳煥の露国より帰朝するあり。
彼■劈頭第一に還御説を主張し、大に世間の耳目を聳動せり。

抑閔泳煥帰国せば、露国熱は一層高まらんとは一般人心の信用せし所なりしに、何料らん帰国後の泳煥は其挙動全く之に反し、寧ろ露国を疎外し、日本提携論を主張し、朝鮮は如何なる場合に於ても日本を離れ国家を維持する能はず。
必ずや日朝両国は、唇歯輔車相俟って東洋に保全せざるべからずと論じ、敢て憚らざるを以て、折角泳煥の帰国に重きを措きたる国王始め露国党は、大に失望せり。
是と同時に国王は稍迷信を開き、露国に依頼する念漸く減じ、稍に日本に親むの念を起するに至れり。
而して、泳煥の斯く俄に日本提携論を主張したるは頗る怪むべしと雖ども、其実露国行に当って上海に立寄り閔泳翊に相会合するや、泳翊は露国に相親しむの極めて不利益なる所以を説き、日朝の提携を以て勧告するありたるに職■すと云ふ。
暗殺事件としては、当ブログでは5月23日のエントリー李根鎔、徐廷圭の暗殺計画を取り上げましたが、他にあったのかな?
廃立の話は、6月8日のエントリーで一応取り上げていますが、時期的に他の廃立話もあったのかも知れません。

まぁ、そのように過激な手段に出ようとして果たせず、このため疑獄事件多発。
そういった状況であることから、加藤が還御を督促してもロシア公使は応じず、恐らくは各国公使も同様に理由で否定的だろうということで、慎重に且つ秩序ある運動で還御を実行するのが得策だと考え、一方では大院君経由で政府部内の金炳始、趙秉世、鄭範朝に。
また一方では民間の有力者の閔泳駿、安駉壽、金宗漢、金嘉鎮にその旨を勧告。
んー、ただ傍観してたわけじゃ無いんですね。

そこへ、5月30日のエントリーでの閔泳煥帰国と同時に、親ロシア熱が一層高まると思っていた世間を驚かせる還御説の表明が行われたんですね。
また、還御説だけではなく、日朝提携論まで主張する状態。
これには、高宗も親露派も大いに失望。
ただ、これと同時に高宗はややその頑迷さを解き、ロシア依存状態から徐々に日本にも親しもうと考えるようになったらしい。

加藤からすれば、閔泳煥が突然こんな事言い出す事が非常に怪しかったが、どうも上海の閔泳翊との会談で日朝提携に傾いたようだね、と。

どちらでも良いから、方針を持続できれば良かったんでしょうけどねぇ・・・。


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)