何気なく始めた加藤の在任中の回顧の紹介。
『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』ですが、良く考えたらアジ歴の停止に間に合わない気がする。(笑)
まぁ、画像リンクはこれまでどおり貼りますので後で確認してもらっても良いですし、9月14日になったら当該文書自体を保存してもらっても良いかと。
打ち間違い以外は嘘は言わないと思いますので、信じてもらっても良いんですが。
グヘヘヘヘ。

さて、続き。

以上の如く、還御熱は益熾に12月に及んで頗る其度を高めたるも、如何せん之に反対する露国派は、畢生の力を盡して之を妨害し、露公使を後楯として種々蜚語作説を流布し国王に不安を与ふるを以て、国王の意に一旦12月28日還御に決したるに拘らず、或る口実の下に終に延期せらるるに至れり。
次て翌30年2月1日、又々還御に内定せしも、是亦た露国派の妨害する所となり其実行を見るに至らざるのみならず、露国派の跋扈夫れ如此くんば、国王は終に露館を出づるの時期なかるべしとの説をすら喧伝するに至れり。
於是旧大臣株を始め、政府大臣中陰に運動費を投じて当国古来の慣の例に鋻み、国民挙って上疏を為し、還御を強制するに如かずと為し、儒生派を使嗾し、先づ第一着手として忠清道儒生派の上疏となり、次て紳士派、次て幼学派若くは市民派の運動と成り、竟に檄を八道に伝へ儒生の一斉上京を促すあり。
其最後の手段として、城内各市塁を封鎖し還御の実行を見ざれば止まずとの意気を示し、殆ど全国民の輿論は此に全く形成せられたるを以て、金炳始以下の還御派の大臣連は、大に此の機会を利用し、極めて敏活なる手続きに依り、未だ反対派の謀議熟せざる短期間に於て輿論を代表し、国王に迫まり還御の止むべからざる所以を諫奏し、即座に裁可を得て、露公使との交渉を纏め、還御に関する詔勅を発布する等、一夜中一切の手続を了し、2月24日を期し還御を実行するに至れり。
是れ、当国人の手際として、臨機応変措置能く其宜きを得、又た其運動の秩序に於て毫も非確する所なきは、内外人の均しく当時称賛する所たりし。
6月8日のエントリーなんかの還宮上疏の話ですな。
この後、金鴻陸なんかが警務使金在豊に上疏者を逮捕させようとして、却って裏切られてチクられたりもするわけで。
もう世論が還宮一色。

で、形勢も定まったので、金炳始以下の還御派が6月6日のエントリーあたりで、サクッと還宮させちゃうわけですね。
臨機応変な措置が成功し、その運動の秩序についても非難する所が無いその手際は、内外人の称賛する所だった、と。
そりゃあウェベルも文句つけられませんねぇ。(笑)

還御後の注意及本官辨理公使に昇任の件

国王還御後、上下一般大に歓喜安堵の色あり。
然れども、当国人の常態として猜嫌の念強く、互に相反目し、事に当って中庸其度を辨せず、兎角絶望的の挙動に及び易きは往々免かれざる所にして、這回還御運動の結果其目的を達し、先づ是にて一段落付きたれば、徐に後圖を為すべきは凡そ事の順序なるにも拘らず、或る一部の徒は此時機に乗じ尚ほ進んで景福宮に還御を奏請すべしと云ひ、或は露国派を宮廷より駆逐すべしと云ひ、或は露国派の推薦に依りて大臣に任ぜられたるものを弾劾すべしと云ひ、或は又内閣員を更迭すべしと唱道し、儒生輩を嘯集をなす事実ありたれども、本官以為らく今や人心漸く露を厭ひ我に向ふの傾ありて、反対派は自ら失望の地位に立ち居るを以て、成るべく乗ずべき機会を彼等に与へざる方得策なりと認めたるを以て、何事も沈黙を旨とし、当分事を荒立てざる方然るべき旨、内々各方面に向て及ぶ限り忠告を与へたるに、当路中亦た克く斡旋諭解するものあり、終に為之一件に沈着に帰し何等事端を醸すに至らずして止みたるは、当時僥倖の一つなりし。

国王還御後纔かに3日、即2月23日本官辨理公使に陞任し、当国駐箚被■■たる旨の電報に接するや、一に是れ已往に於ける本官の執りたる措置は、帝国政府の是認したる結果に由るものと速了し、国王始め内外官民一般に至極好感触を与へ一層本官の信用を博すると同時に、政畧上有益なる影響を与へたるは、その当時の情況に鋻み敢て過言に非らざるなり。
「当国人の常態として猜嫌の念強く、互に相反目し、事に当って中庸其度を辨せず」。
韓国人の常態として、猜疑心が強く、党争ばかりで、何かする時には限度を知らない。
加藤語録にまた一つ。(笑)

そして、続いての「兎角絶望的の挙動に及び易きは往々免かれざる所」については、近年WEB上で絶妙な言葉が生み出されております。

「斜め上」(笑)

ということで、折角還宮で一段落付いたのに、さらに景福宮への還御とか、親露派を宮廷内から駆逐しろとか、親露派の推薦で大臣になった者の弾劾とか、内閣更迭のために儒生を集める等、極端な行動に走るわけです。
しかし加藤は、民心がロシアを厭い日本に向かう傾向がある現状を維持し、変な事してロシア派に乗じる隙を作らない方が得策だろうとして、事を荒立てないように忠告し幸いに沈静化。

一方加藤は、弁理公使に昇任。
これまで加藤の執った措置は、日本政府の是認した結果だと思い、高宗や内外官民一般に好感触を与えて信用を得ると共に、政略上有益な影響を与えた、と。

露韓密約書の件

本件は、已往屡々世評に上りたるも、未だ其真相を伺ふに由なく、否果たして右の如きもの成立ち居るや否やを確むるさへ困難を感じ居際、曩に露国士官、下士合せて160人聘用問題突如として起り形成頗る切迫の折柄、本官は韓帝へ内謁見を求め、斯く多人数の兵員を招聘の不可なる事、并に日露協商の存在する上は、決して帝国政府は之を過黙に附せざるべき旨を奏聞せし際、陛下は露韓密約なるもの先年閔泳煥大使として露都に赴きたる節成立し居りて、即ち這回の兵員は之に■因する旨、図らずも其答辞中に洩聞くを得たるを幸ひ、之を質言とし、幾回となく陛下と本官との間に内密に往来する兪箕煥を介して探聞せんと力めたるも、陛下は忽ち前言を取消し、密約なるものは決して露韓間に成立し居らず、唯だ閔泳煥をして口頭を以て2、3条件を露政府に交渉せしめたる其中に傭兵問題をも含み居るの謂なりと、漠然御答相成るのみにて終に要領を得ず空しく荏苒中、恰も好し度支顧問として新に来着したるアレキセイエフ氏は、現に同顧問の位地にあるブラオン氏を排斥せんと企たる為め、両者間に衝突を惹き起しう、其結果韓帝は露英公使の板挟となり頗る震襟を悩ませる折柄、兪箕煥、閔泳綺等切に日韓提携論を唱へ、且つ度支部顧問問題に関しても、日本政府中際調停を求むるに如かずと勧告するありて、韓帝は之に同意を表し、旨を兪、閔に下し、屡々本官の許に往復して、以上日韓提携の実を挙ぐるには密約の必要ある旨を以てせり。
本官は、敢て去る必要を認めざるも、此機会を利用し彼等に伺って、先以て近頃世間に噂する露韓密約なる者の存在すると否、并に其条項を知悉したる上にあらざれば、日韓密約の事本国政府に稟議し難きを答へ其一覧を求めたるに、彼等は陛下と密議を凝したる末、本官に於て敢て之を世間に漏泄せずとの担保を与ふるに於ては、敢て一覧するも無差支旨申来候に付、其安心の為め一書を認め与へ、而して其所謂秘密條約書なるものを一覧し、直に之を寫取り、其当時本省大臣の閲覧に供し置けり。
右に付、当時西大臣より鄭重なる賛詞を与へられ、且つ該条約書は我皇帝陛下の御手許に差出し置ける旨訓示せらる。
6月24日のエントリー辺りの話かな。
ロシア軍人の聘用問題で内謁見すると、高宗がポロッと「露韓密約ってものを閔泳煥が結んできて、今回ロシア兵が来たのはそのせいnida。」と漏らしちゃう。(笑)
それ以降は前言を取り消して、知らないふりをするわけですが、そのうちブラウンとアレキセーエフの衝突が起きる。
で、高宗は板挟みで震襟を悩ませる。
つうか、高宗しょっちゅう震襟を悩ませてますな。(笑)

そういった状況の中で、兪箕煥や閔泳綺等は頻りに日韓提携論を唱えて、度支部問題についても日本政府に調停してもらった方が良いんじゃね?と。
かなり間違ってる気がするわけですが・・・。

兎も角、高宗はこの案に同意。
で、加藤に連絡をとりに来るわけですが、加藤は「噂になってる露韓密約があるかどうか、あるならばその条項が分からないと本国政府に稟議しづらいです。」と。
高宗等は協議して、「世間にもらさないと担保するなら、見せても良いよ。」と露韓密約があることを白状するわけですな。(笑)
結果加藤は露韓密約の内容を入手し、西外務大臣へ写しを送附、と。

つうか韓国政府、秘密ダダ漏れじゃん・・・。_| ̄|○


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)