誰もがアジア歴史資料センターの史料を見れない事を承知の上で、連載は何事も無かったように続きます。(笑)
今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』から。
加藤が、聘用条約の調印を阻止した所からとなります。

排露熱勃興及露国士官撤退の件

排露熱の発生せしや久し。
其原因は、露公使ウヘバー氏が国王を成るべく永く露館に駐驛せしめんとせしに起り、次てプチヤータ大佐が露国士官160名を招聘せしめんとせしに激せられ、遂に現公使スペールがアレキセイエフを度支総顧問官たらしめん時に至りて其極を達したるものなり。
然り而して、ウエバー氏は久しく韓国に在りて克く其事情に通じ、緩急操縦稍其度に適ひたるを以て、排露熱も亦常に一昂一低の間にありしが、スペール氏は之に反し先づ己を号令者の地位に置て万事を遂行せんと企てたるを以て、此熱度は一時に激昂して、又々冷却の余地を存せず、遂に絶影島炭庫敷地問題に至りて急に大激昂を来し、独立協会の上疏と成り、金鴻陸の謀殺未遂事件と成り、内閣大臣の総辞職となり、官民一体の排斥運動と成りて、其結果士官及顧問官を撤退せざるを得ざるに至れり。
排露熱は、これまでも何度か出てきたとおり、露館播遷末期には既に発生していたわけで。
続いてプチヤータがロシア士官160名を聘用しようとした際に激しくなり、スペールがアレキセイエフを度支部総顧問にしようとしたときに極限状態に、と。

で、ウェベルはまだ韓国に何年もいて事情を良く知り、適度な緩急で操縦しており排露熱も激しくなる事はなかったが、スペールは上から物を言うタイプのため排露熱を高める結果となり、絶影島の石炭庫敷地問題で急に大激昂を招き、独立協会の上疏、金鴻陸の毒茶事件、内閣大臣の総辞職、官民一体の排斥運動と成り、結果として聘用問題においても顧問問題に付いても撤退せざるを得なくなった、と。
まぁ、義兵などがイコール排日ではないのと同様、これらが排露と直結するわけでは無いとは思いますがね。

即明治31年3月7日午後6時、露公使突然外部大臣に長文の照会を送れり。
其要に曰く、曩に京城に於て悲むべき事ありたる(金鴻陸謀殺未遂事件を指す)外、無頼の徒露国に背くの挙あるに付露国皇帝大に之を怪まる。
曩に士官及顧問官を派したるは、請に応じて隣邦の自主を担任せしなり。
然るに、之を無視す。
是れ、久しく容忍する能はざる所なり。
敢て問ふ。
韓国皇帝及其政府は、露国の援助を必要と認むるや否や。
士官及び顧問官を不要とするに於ては、露国は之に対する必要の措置を為すべし。
右は、24時間内に決定を望むと云ふにあり。
此の照会に接したる韓廷は、善悪共に方向相付かずして只周章狼狽するのみ。
1898年(明治31年)3月7日に至って、ロシア公使から突然照会が届く。
おどれがお願いしたけん、わしが士官や顧問官を韓国に送ったんじゃろうが。
ほじゃけど無視って何ねぇ?
そがんことやるんじゃたらこらえんでぇ?
敢えて聞くが、高宗と韓国政府はロシアの援助が必要なんかどげなんでぇ?
要らんゆうんじゃったら、ロシアはそれ相応の措置をとるけんねぇ。
24時間以内に回答くれーや、と。

大体、前提が韓国政府の依頼なわけで、本来であれば割と逃げ道なし。
というわけで、これを受けた韓国政府は、右往左往して方向性も定まらず、ただあわてふためくだけ、と。
つうか、ビジョンも無ければ予測も無いってのは、自主防衛を吹聴して在韓米軍を撤退させる現代韓国でも変わりませんよねぇ・・・。
最悪の事態を想定して、覚悟くらいしとけよ、と。(笑)

韓廷は、同夜12時閔泳喆を本官の許に遣し、之を如何に処すべきや、万事宜しく頼むとの事に付、先づ陛下の御決心を確めたるに、陛下は此際士官及顧問官を全然撤退せしめたしと雖ども、万一此の議行はれ難きに於ては、責めては士官は唯だ軍隊教練に止め、又度支顧問官も実権を握らざる単純の顧問たらしめたしとの希望なる旨、閔泳喆相答へたるを以て、然らば陛下は明日直に露公使に謁見を与へ、詳かに同公使の云ふ所を聞き置き、而て兎に角24時間の回答期を3日間延期を請ふの書翰を発送し置くべき旨を勧告し、即時前任西大臣に電報し請訓する所あり。
而して本官は、此に意見を確定し、此際断然士官并に顧問官を均しく撤退せしむるの方針を執りて差支なきものと思考し、兪箕煥、閔泳喆等の陛下の内旨を奉じ、本官の許に往来するものを介し陛下に内奏する所あり。
夫れ、露国士官等の来りたるは、勿論韓国の依頼に因りたるものなれば、其の好誼に対しては深謝せざるべからず。
又た、之を謝絶するに付ても、固より小弱国が大強国に対する謙遜の本分を守らざるべからず。
依て、務めて慎重の態度を執り、政府に於ても熟議を要するは論を俟たず、尚ほ広く閣外元老の意見を集め遺算なきを期して、克く此難問題に応ぜざるべからずとの旨を、懇々奏聞せしめたりき。
於是韓帝の意、始めて断然謝絶の事に確定し、元老大臣金炳始始め数多の意見を徴せられたるに、孰れも謝絶を断行すべしとの意見一致し、且つ独立協会員等も大に謝絶論を主張する気運に向へり。
而して、其謝絶に関する回答案起草に当り、韓帝は内旨を本官に下し、回答の辞意に関し強ひて本官の意見を徴せられたるに付、本官は成るべく之を口授に止め置くの考なりしも、外交の辞例に慣はざるの故を以て文案を作る事を請ふを止まず、已を得ず文案を作りて之を示し置けるに、豈図らんや韓廷の回答は全く之を謄寫して、更に一字一句も取捨を加へざりき。
ロシアからの脅迫というか約束の履行請求を受けて、韓国政府は加藤のもとに閔泳喆を派遣。
「こんなの来たけどどうすれば良い?万事宜しく頼むよう。」と泣きつく。(笑)
取りあえず加藤は、「高宗自身はどう思ってんのよ?」と確認すると、「この際だから、顧問官も士官も全部撤退させたいんだけど、もしそれが難しかったら、せめて士官は軍事教練するだけ、顧問は実権のない単なる顧問にしたいdesu・・・。」と。
そこで加藤は、ロシア公使に謁見させて公使の言い分を聞く事にし、その上で兎も角24時間の回答期限を3日延期して欲しいという書翰を出しておきなさいと勧告を与える一方、西外務大臣に連絡して請訓。

ここで加藤、士官と顧問官を断然撤退させる方針をとって差し支えないだろうと意見を確定し、元々韓国が以来したんだから、ロシアに対する好誼には感謝しなければならないし、断るにしても弱小国の強大国に対する謙遜の本分は守らなければならない。
だから、充分に慎重な態度をとって、政府内でも熟議するのは当然として、さらに広く元老の意見も集めて遺漏が無いようにし、この難問に当たらないと駄目だよと高宗に内奏。
これを受けて高宗は始めて断然謝絶の意を決し、金炳始等の元老の意見も集めた所、いずれも謝絶に意見一致し、勿論独立協会も謝絶論、と。
珍しく団結。(笑)

で。
回答案作成に当たって、加藤君の意見も聞きたいんだけど~、と。
加藤は、口頭で済ませるつもりだったのに、「僕たち外交慣例とかに疎いからさぁ、頼むから文案作ってくれよぉ。」と縋り付く。
仕方なく加藤は、文案を作って示す。
すると、予想通り加藤の文案丸写しで回答した、と。
まぁ、失敗したら加藤のせいにされるんでしょうなぁ・・・。(笑)


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
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加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)