今回のように、色々な史料を参照しながら話を進めなくても良いってのは、テキスト起こす量が多くても、精神的に結構楽。
割と機械作業ですからねぇ。
まぁ、その分コメントには苦労するわけですが。(笑)

ってことで、今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続き。
高宗、韓国政府、元老、独立協会の意見がほぼ一致を見、士官及び顧問官の謝絶について加藤の文案丸写しで回答した所からですね。

右に接したる露公使は頗る事の意外なるに驚き、夜中通弁を宮中に遣はし該回答の撤回を促したるも、宮中に於ては已に政府の決議を経たる旨を口実とし之を峻拒したる為め、又た空しく持帰りたりと云ふ。
形勢如此なるを以て、露国は果して此の回答に接し如何なる措置に出づべきやと懸念不一方、殆んど露公使の最後の照会に接する迄は、韓帝は頗ぶる煩悶苦慮、寝食を安ぜず、毎々侍臣を本官の許に遣はし下問せらるる所あり。
本官は、力めて軫念を安ずる手段を執り、断じて此次露国は兵力に訴ふるが如き懸念無之旨を屡々上聞に達し置きたり。
果せる哉、同17日露公使より露国は韓国の希望通り、士官及顧問官の引揚に同意し、且つ自今事務を執らしめざる様必要の措置に及びたる旨回答せるを以て、皇帝始め政府人民も、始めて愁眉を開き、爾来城内一般に沈静に帰したり。

以上、露国の態度此に出でたるは、或は北清問題に多少関係を有し斯く速に撤退を肯ずるに至りたるものと推察せらるも、由来感情の極端に走りて往々無謀の暴挙を企てたる幾多の前例を有する韓人にして、今回に限り頗る沈着老成の態度を守り、歩調を誤らず、斯く円滑に此の難問題を収局したるは、其当時にあって本官の心窺に欣幸とする所たりし。
これを受けたロシア公使は驚き、夜中に通訳を宮中に派遣してその回答の撤回を促したが、宮中では「もう政府が決議しちゃってるから」という口実で撤回拒否。
こういう状況になった事から、当然ロシア側がどのような措置に出るかという懸念は一方ならず、高宗はいつものようにビビリまくりで、加藤のもとに何度も「大丈夫かな?大丈夫かな?」と使者派遣。(笑)
加藤は、「武力行使とか絶対無いから、大丈夫。」と安心させる事に務める。
案の定、3月17日にロシア公使からは、韓国側の希望通りに士官と顧問官の引き揚げに同意し、今後事務を行わせないような措置を講じたと回答。
ここで、高宗を始め政府人民も安心し、城内は鎮静に帰した、と。

で、加藤は、ロシアが今回のように事態を穏便に済ませたのは北清問題に多少関係しており、このような速やかな撤退を招致したのではないかと推察。
ここでの北清問題ってのは、1898年3月の大連や旅順の租借権と、南満州における鉄道敷設権を獲得する話かな?
で、加藤語録に又一つ。
「感情の極端に走りて往々無謀の暴挙を企てたる幾多の前例を有する韓人」。(笑)
マジで、誰か加藤語録まとめてくれないかなぁ・・・。
それが今回に限っては、非常に沈着老成な態度を守ってこのように円滑に難問題を解決したのは、喜ばしく幸せな事だ、と。
確かに、最終局面に於いて団結して方向性を守ったってのは、非常に珍しいですからねぇ・・・。

度支顧問アレキセイエフの来韓并にブラオンの地位

曩に閔泳煥特派大使として露国に赴きたる節、其委任事項の一として露国政府に就き交渉する所あり。
即ち、財政に熟達する同国官員一員を韓国に送り、須らく大韓諸般の度支事務を総弁し、兼て■関に関する諸般事務を■理せしめたしとの事を以てせしに、露国政府は此に依頼を容れ、該国財務官アレキセイエフ及び其書記官ガァフラルトを派遣するに至れり。
而して露公使は、以上閔泳煥との取極めに由って両人の来韓せし旨を公然韓政府に通知し、且つ両人を同伴して謁見を為し、速に契約書に調印を要求せり。
惟に露国は此の機に於て兵権は勿論、兼て財政権をも悉く其一手に収覧せんとの野心に出でたるものにして、若し之を遂行せしむるときは、我に於て一大不利益の地位に立たざるを得ず、殊に日露協商とは全く相枘■するを以て、所有する手段を盡して之れが防遏に従事せり。
而て一面は、政府大臣より民間の有力家を説き、又一面にはブラオンの地位を維持するの名に於て、英国総領事ジョルダンに説き、之と相結托して現在の位置維持に盡力せり。
其結果、一方には民間の輿論大に反対を唱へ、一方には総税務司ブラオンの地位を維持せんと欲して、手強く運動するあり。
聘用問題と同時期の、度支部顧問問題。
こちらはイギリスも絡むので、聘用問題に較べればかなり楽には見えるんですけどね。(笑)

聘用問題同様、元々閔泳煥がロシアに赴いた際に、度支事務の総弁と税関の諸般事務を管理する人材派遣を依頼し、これによってロシアはアレキセイエフらを派遣。
で、ロシア公使は閔泳煥との取り決めで彼等が来韓したことを通知すると共に、彼等を引き連れて謁見し、契約書に調印を要求。
士官聘用により兵権を、度支顧問任用で財政権までロシアの手に落ちれば、当然日本は苦境に立たされるわけで、あらん限りの方法で阻止を図った、と。

まずは、聘用問題同様に政府大臣や民間の有力者を説得し、一方ではイギリス総領事のジョルダンに働きかけて之と結託。
ブラオンの現在の地位を守る事に尽力した、と。
結果、一方では世論はアレキセイエフの顧問就任に大に反対を唱え、総税務司ブラオンの地位を維持しようと、強烈に運動。
つうか、韓国の民間世論も、アレキセイエフなら駄目でブラウンならオッケーってのが、良く分からんのですが。(笑)
マジで、単なる「排露熱」なんでしょうかねぇ・・・。

露公使は形勢如此なるを察し、到底時の外部大臣閔種黙の優柔不断なる、契約を断行する勇気なきを見て、偶々趙秉式の同公使の意を■へ契約調印を主張するあるを利用し、国王に迫まって閔に代えるに趙を以てするに至れり。
此に趙秉式外部大臣に任ぜらるるや、度支大臣朴定陽の協議に応ぜず、調印を拒みたるにも拘はらず、又た英総領事の抗議あるをも意に介せず、断然露公使との間に契約書調印を了せり。
是と同時にブラオン解傭の通知を英総領事に送れり。
形勢右の如くなるを以て、之に反対する朴度支は辞表を呈して去り、後任には即露党の一人たる鄭洛鎔任命せらるるや、ブラオンより一切の書類を引挙げ、其事務をアレキセイエフに移し、アレキセイエフ此に全く財務を総理する事に成れり。
以上趙秉式の専横なる処置は大に一般の非難する所となり、平素不人望なりしブラオンは、寧ろ却て一般の同情を惹くに至れり。
英国総領事は、以上の所為に対し大に不満を抱き英政府を代表し大に抗議を提出し、且つ艦隊を仁川に集合せしむる等示威運動を為したる結果、纔にブラオンの総税務司の地位丈は之を喰止むることを得たり。
斯てアレキセイエフは専ら度支財政の衝に当りたるも、日ならずして大臣鄭洛鎔との間に意見の相衝突するあり。
爾来何となく度支部内の折合円滑を欠き、事務の挙らざるの傾きありしが、翌年に及んでは種々の点より排露熱漸く勃興し、露国政府は手を引かざるを得ざる場合に押移り、即3月初旬に於て他の陸軍士官と共に、度支顧問も均しく撤退するに至れり。(詳細は、士官聘用問題の記事参看)
ロシア公使は、形勢がブラウン側に傾いているのを察し、時の外部大臣閔種黙は優柔不断であり、世論がこのようであれば到底契約を断行する勇気は無いだろうとし、たまたま趙秉式がロシア公使の意図の通りに契約調印を主張するのを利用し、高宗に迫って外部大臣を閔種黙から趙秉式に代えさせた、と。
それで代える高宗も高宗なんだけど、そもそも李完用から閔種黙に外部大臣を代えさせたのって・・・。(笑)
あの時は閔種黙が軟弱だから直ぐOKするだろうと考え、今回は軟弱だから世論にビビッて承知しない。
人選ミスですな。(笑)

この時、度支大臣の朴定陽はその協議に応じず調印も拒否しており、一方でイギリス総領事ジョルダンの抗議があるのも意に介さず、趙秉式が外部大臣となるやロシア公使との間で速攻契約書調印終了。(笑)
で、ブラオンの解雇通知をジョルダンに送る。
んー、何つーか・・・凄いなぁ・・・。

そういう状況になった事から朴定陽は辞表提出。
後任の度支大臣には親露派の鄭洛鎔が就任し、早速ブラウンから書類一切を引きあげてその事務をアレキセイエフに移し、ここにアレキセイエフが財務を総理することになったんですね。
この趙秉式の勝手なやり口は、当然みんなから非難囂々。
いつもは人気のないブラウンに同情が集まった、と。
つうか、ブラウン不人気だったんだ・・・。(笑)

ジョルダンも勿論不満であり、イギリス政府を代表して正式に抗議し、且つ艦隊を仁川に集合させるなどの示威行為によってやっと総税務司の地位だけは守った、と。
艦隊つかって示威行為って、イギリスの十八番だしね。

ということで、ブラウンは税関を、アレキセイエフが度支財政を担任する形になったんだけど、直ぐにアレキセイエフと新任度支大臣の鄭洛鎔が衝突。
それ以降なんとなく度支部内の折り合いが悪くなった、と。
更に、翌年の1898年にはこれまでも度々出てきたとおり排露熱が激しくなり、ロシアは手を引かざるを得なくなって、1898年3月に士官と共に顧問官も撤退。
またもや、人選ミスですな。(笑)
いや、まともな人材いるのか?という根本的な疑問も無いわけでは無いんですが。(笑)


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)