前回で、ようやく半分折り返し。
残り半分になってしまいました。
アジ歴再開までどうしよう・・・。(笑)

さて、今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』から。
前回は、聘用問題と財政顧問問題に一段落ついた所までを見ました。
今回はその続き。

皇帝称号の件

当国国王が日常普通の事を処するに於ては、平人以上の智畧を有せらるるに拘はらず、儀式装飾等の事に至りては極めて浮華を好み、自ら揣らざるの極往々児戯に類する事を為して恐悦さるるを常とす。
皇帝称号、国号改定の如き即ち是也。
国王が、皇帝の称号を望まるる事固より一日にあらず。
遠く、明治17年の交より折に触れては其の希望を暗示さるるを以て、廷臣も往々之れで歓心を買ひ、若しくは感情を和ぐるの手段として利用せんと企てたること一再に止まらず。

然るに、30年に入りては春来其情望を熾にせられ、遂に各道より多数の上疏者を見るに至れり。
是れ、勿論上意を迎合する目的たるもの多しと雖、国王及び昵近より内密に諭旨して上疏を促したること亦た少からざるやに観察せらる。

進号上疏の頻々たるに至りては、国王は表面敢て当らずとて却下されたれども、廷臣相連りて請ふもの5次に至りて、遂に臣民の稟請止み難く、皇帝の位号に膺らるることとなれり。
然れども、皇帝は諸外国が之れを容認せざるべき事を恐れて、内々各国使臣に依頼さるる模様あれども、他の使臣は熟れも之れを真面目に賛成するものなく寧ろ諷止する有様なれば、本官も一時断念して徐々に国の発達を待たるべき旨を内奏したれども、国王の希望は遂に抑ふるに由なく、各国の認容すると否とを問はず断然皇帝の位号に膺るの決心をなし、遂に10月12日を以て即位式を挙ぐるに至りたり。
是に於て本官は惟らく、本来我国に於ては、各国の帝王を一斉に日本語を以て皇帝と称するの慣例なれば、単に朝鮮国王に対し、日本語を以て皇帝と云ふ称号を用ふることは毫も差支なく、而かも国王の歓心を買ふに於て、非常の利益あるべきを以て、断然各国に先って皇帝の称号を認むるを得策と思料し、本省へ稟議の末別に容認の通知を発せず、最近の機会に於て我より皇帝の位号を用ふることとなりたるに、日ならずして明成皇后の葬儀施行の事あり、本官に特派大使として参列被仰付たる其国書に初めて皇帝の位号を用ひられたれば、諸外国中第一着に皇帝の位号を用ひしこととて、皇帝は非常に満足せられたり。
爾後、各国も此例に做ひ追々皇帝の称号を用ふるに至りたれば、皇帝は之れに就きても深く我邦を徳とせらるるものの如し。
この辺は、「帝国への道」で取り上げた話がメインですね。

高宗は、日常的な普通の事への対処については、人並み以上の知略を持っているのに、儀式や装飾などの事については実質に関係無く兎に角上辺だけは飾る事を好み、常々何の価値も無い事をして非常に喜ぶ、と。
「虚飾」ですな。
で、皇帝号や国号の改定なんかは、まさにそれ、と。
一刀両断。(笑)

元々高宗が皇帝号を望んだのは昔からの事で、明治17年から折りに触れてその希望を暗示とあるわけですが、明治17年ということは、甲申政変絡みかな?
ちょっと興味深い。
で、家臣も歓心を買ったり感情融和の手段とするために、皇帝称号等の件を利用しようとする事が再三あった、と。

明治30年に入って皇帝称号等への願望は益々激しくなり、遂には各地から多数の上疏者が出るようになる。
まぁ、この辺は7月10日のエントリーで趙秉式、権在衡、兪箕煥等に内命を下して上疏運動をさせた話が出てましたな。
で、高宗はそれらの上疏に対して謙譲して却下し続けたんだけど、沈舜澤等の廷臣が5回も上奏したため、仕方なく皇帝の位号に就く事にしたというポーズが取られるわけです。

まぁ、これ自体が茶番くさいんですが、勿論その大本は諸外国が皇帝となることを容認しない事を恐れたからであり、これまで内々に各国の使臣にお願いしてみたけど、誰も真面目に賛成する者が無いどころか、寧ろ遠回しに止めとけと言われる始末。
おまけに、加藤まで「一時断念して、国が発達するまで待ったら?」という内奏。
しかし、高宗の願望は抑える事が出来なく、遂に「各国が容認しようがしまいが、皇帝名乗るもん!」と決心し、10月12日に即位式挙行。

この辺は、6月24日のエントリーで外務省と連絡とりあってるように、要するにやっちゃったもんは仕方ないわけで、「Emperor」なら兎も角日本語で「皇帝」って言う分には高宗も喜ぶだろうし良いんじゃね?という、かなり投げやりな理由で皇帝と呼ぶことに。(笑)
で、どうせ呼ぶなら他国に先立って呼んでやろうと言うことで、閔妃の国葬で加藤が特派大使として行く際に、その国書の中で皇帝の位号を使った所、高宗は非常に満足。
それ以降は、他の国もそれに習って皇帝の称号を用いるようになり、高宗はこの点でも日本の徳とした、と。

つうか、単純なヤツ・・・。

朝鮮に対する感情融和

傭聘問題は、端なく朝鮮の上下をして帝国に対する好感情を喚起したるのみならず、露仏に対して疑惧の念を醸さしめたれば、本官は此機会を利用し、如何にもして10月8日事変以来の悪感情を除去せしめんと計り、爰に懐柔の方針を以て大に感情の融和を勉めたり。

然れども、朝鮮人の通性として、臨むに威を以てせば之れを恐れて近かず、懐くるに恩を以てすれば馴れて侮るに至り、其間の呼吸大に用意を要するを以て、本官は能くべき限り凡ての機会を利用して、我に他意なきことを示して信頼の念を増さしめ、而かも同時に厳然たる態度を保持して、漫りに馴れしめざらんことを期したる結果、事態形勢自ら変化を来し、朝鮮上下の人心は、日を追ふて露を離れて我に来るに至れり。
聘用問題の解決は、朝鮮の官民の日本に対する好感情を喚起し、ロシアやフランスに対して疑い、不安視するようになった、と。
なんでこう両極端かね・・・。
兎も角加藤は、この機会を利用して閔妃殺害事件以来の悪感情を取り除こうとして、懐柔の方針をとり、大いに感情の融和を図った、と。

ここで加藤語録。
「朝鮮人の通性として、臨むに威を以てせば之れを恐れて近かず、懐くるに恩を以てすれば馴れて侮るに至り」。
アメリカと韓国に対する北朝鮮とか。(笑)
朝鮮人の共通の性質として、対するのに威力で臨めばこれを恐れて近づかないし、恩でなつけようとすれば馴れて侮られる、と。
従って加藤は、出来るだけ総ての機会を利用して、自分に他意が無いことを示して信頼を集め、同時に厳然たる態度を維持してむやみに馴れあわないようにした結果、朝鮮の人心は日に日にロシアを離れて日本に寄ってくるというように、状況が変化してきた、と。

加藤、本当にご苦労さんだよねぇ・・・。


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
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