つうか、改めて見ると問題山積だったんだねぇ・・・。
ってことで、加藤の在韓公使時代の回顧的な報告も今回で10回目になりました。
今回も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続きを見ていきましょう。

外人に対する感情融和

28年10月8日の事変は、啻に当国人の感情を酷害したるのみならず、甚しく外人の感情を害し、我を目するに残忍酷薄を以てし、一般の政策に対し直接間接の反対を受けたること少からず。
殊に米国宣教師等の排日本的運動を然りとなす。
是を以て本官の対韓懐柔策の稍々緒に就きたると同時に、先づ一般外人の我に対する悪感情を滌除するを急務と認め、各国使臣以外に就て稍々地位ある外国人、殊に米国宣教師に向って交際を親密にし、有らゆる機会を以て其好感情を維がんと力めたるに、幸に顕著なる効果を収め、排日的論議を試むるものを見ざるに至れり。
時恰もスペール氏本邦より当国に来任したるに、同氏は非常に民主的言動を嫌忌し、外国宣教師等が其分を忘れて漫りに政治に容喙するを以て甚だ不都合なりとし、大にアンチアメリカン主義を公言したる為め、米国人などは痛く露公使に対して不快の念を起し、同時に露国とは自ら対手者たる我に向って、好情を寄するに至れり。
斯くて已往スペール公使とシル公使との時代に成立せし露米間の密鎖は全く謝絶して、爾来寧ろ米国の助勢を我に誘致したるは、固より本官の画策其功を奏したる次第なりと雖、時勢の変化とスペール氏の排米的言動も有力なる原因なりしことを認む。
閔妃殺害事件は韓国人だけではなく、甚だしく外国人の感情を害し、日本人を残忍酷薄と見なし、一般の政策についても直接間接の反対を受けたことも少なくなく、特にアメリカ人宣教師などは排日運動を当然と捉える。
返す返すも三浦梧楼と壮士連中の害は大きいですな。

このため、加藤は韓国への懐柔策の取りかかると同時に、まず一般外国人の日本に対する悪感情を取り除く事を急務とし、各国の使臣以外にやや地位のある外国人、特にアメリカ宣教師との交際を密にして、あらゆる機会を使って好感情を得ようと努力したところ、幸いに顕著な効果があり、排日的な論議をする者も見かけなくなった、と。
また、丁度スペールがロシア公使として赴任したものの、彼は民主的な言動を嫌って外国人宣教師が分をわきまえずに政治に容喙するのを甚だ不都合だとして、アンチアメリカンを公言。
そのために、アメリカ人はロシア公使に不快感を示し、必然的にロシアに対する日本の方に良い感情を寄せた、と。
いや、確かに宣教師、しかも外国人が政治に容喙するって最悪なのは最悪ですがね。
スペールももっとやり方考えろ、と。(笑)
まぁ、私の予測によれば、容喙を可能にしていたのは高宗なんでしょうけどね。

兎も角、ロシア公使スペールとアメリカ公使シルの間にあった繋がりも断ち切れ、それ以降アメリカが日本寄りになったのは、加藤の計画が上手く行った事と同時に、情勢変化とスペールの言動も大きな原因の一つだった、と。
こうして、外国人の日本に対する感情は好転したわけですね。

仁川港前灘埋立一件

本件は、仁川港の発達に伴ひ自然日本居留地の狭隘を感じ来りたるを以て、同居留地前面を埋立てて居留地の拡張せんとするものにして、其自体に於ては固より重大なる問題と云ふ能はざるも、種々の事情の纏綿せしが為め、10余年間に亘る希有の難件と成りたるなり。
埋立工事は、啻に本邦人民のみならず一般公共の利益にして、朝鮮政府に於ては当初より著しき故障なかりしが、外国人の反対甚しく、従って各国使臣中常に本案の進行を阻滞せしむるものありたるなり。
何故に外国使臣の反対を来せるか。
仁川に於ける本邦人民は、日本居留地に溢れて各国居留地に住居するもの多く、各国居留地の大部分は本邦人が外商の所有土地に家屋を建築して居住せるものを以て充され、外商等は其地代によりて年々数万円の収入を得つつある也。
故に、一朝埋立工事にして成就せんが、各国居留地に在る日本人は忽にして之に移住すべきを以て、勢ひ外商等の収入に非常の影響を来さざる可らず。
是を以て、最も多く利害を感ずる独乙領事は常に有力なる反対者たり。
又た、英国公使はハーリーパークス氏清韓駐在公使たりし頃、朝鮮政府と協定せし覚書中、将来日本居留民地及各国居留地の前灘を埋立つるときは、其埋立地は各国居留地たるべしとあるを以て、本案の埋立地を日本居留地の一部となすことは此覚書の明文に抵触すとの理由にて、是又反対の地位に立ち、其他の使臣も皆な多少の利害を有するを以て我に同意を表せず、朝鮮政府は是等外国使臣の手前を憚りて、我が提案に賛成せず。
如斯事情の下に、本件は提案以来殆ど10年に■んとする間交渉に交渉を重ねたるも、寸前尺退の有様にて、容易に解決に至らざりし也。
仁川の埋立問題については、きままに歴史資料集「日清戦争前夜の日本と朝鮮(16)」においても取り上げられており、そこでも記されているとおり『公文類聚・第十五編・明治二十四年・第十四巻・外事・国際・通商・雑載/仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス(レファレンスコード:A01200756600)』では「終結致し候」だった筈なんですが、10余年間の難件という事は、それだけでは終わらなかったようですね。

当然朝鮮政府は居留地借入約書第1条に基づく拡張であり、最初から問題とはしてない。
しかし、外国人の反対が激しく、各国の使臣の中で常に埋立問題の進行を邪魔する者がいる、と。
『仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス』と同一案件において、海岸の1道路を各国人も往来自由として提供するというような直接的な関係だけでなく、外国人居留地に間借りしている日本人が、拡張された埋め立て地に住むようになれば地代が入らないからという、もの凄い間接的な問題が新たに出てきたんでしょうね。(笑)

で、その筆頭はドイツ領事。
イギリス公使は、パークス覚書の新たな埋立地は各国の居留地とする条文に抵触するとして反対。
その他の使臣も多少の利害関係があるために同意せず、挙げ句の果てには朝鮮政府までが各国使臣の手前を憚って、日本の提案に同意しない。(笑)
ということで、埋立問題は少し進んで大幅に後退の有様で、簡単に解決しなかった、と。

本官思へらく、本案埋立の主要なる目的は、之を以て米殻斗量及船荷扱ひ場并に倉庫設置等に存するを以て、此目的に達し得べき限りは、多少の制限を設くるも差支なし。
且つパークス覚書の如きは、殆んど今に於て顕著なる効力を有せざるものなれば、英国公使に悪感情を与へざる以上は、甚だしき反対を受くることなかるべしと。
乃ち先づ故障の根本たる大地主独乙商人ウオルターに対し、石井領事をして極めて微妙なる手段を用ひ之れを馴致せしめ置き、而して後一昨年11月各国使臣会議を招集し、遂に我提案の議定書を可決せしむるを得たり。
而して、同時に独乙領事には米公■を以て、向後更に埋立拡張せざること及び、新埋立の地は普通の商店住宅の敷地に充てざることの2点を保証し置きたり。
尤も、当時英公使はパークス覚書もある事に付、本国政府の承認を条件として調印したれども、其後何等の故障をも申出ずして遂に全然本件の通過を見たり。
10年に■れる難件が、一席の使臣会議にて妥協に至りしこと、固より仁川に於ける石井領事の功労に由るもの少なからずと雖、抑又従来日本公使が実際に各国の使臣とは左程親密ならず、其運動も常に孤立の有様なりしに拘はらず、本官は大に進んで彼等と交誼的協同の態度を何事にも適用して、好感情を博したるの結果たりしことを信ず。
今回の埋立の主な目的は、当初から居住地の確保ではなく物資の置き場、倉庫等の敷地の狭隘解消にあったのであり、その目的を達するためには多少の制限を設けても差し支えないだろうと加藤は考え、且つパークス覚書なんて今現在大した効力も無いんだから、イギリス公使の御機嫌を損ねなきゃ激しい反対も受けんだろう、と。
そこで、現在最も障害となっている大地主のドイツ商人ウォルターに対して、仁川の石井領事に「極めて微妙なる手段を用ひ」馴致させる。
んー、極めて微妙なる手段って、非常に気になるわけですが。(笑)

で、ドイツ領事に対しては、今後更に拡張はしない事と埋立地は普通の商店や住宅の敷地に使わないという条件を保証。
イギリス公使は、パークス覚書もあるので本国政府の承認を条件として、ようやく日本の提案した議定書を可決、と。
ということで、ここでようやく仁川の埋立問題は解決を見たようなんですが、『仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス』の事もあるわけで、本当に解決したのか不安。(笑)


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
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加藤増雄の在韓時代(四)
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