んー、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、長い。
色んな史料の集まりではなく、一つの文書だから長いんだろうなぁ。
つうか、正直テキストに起こすの大変だ。(笑)

また愚痴っぽくなってきましたが、今日も1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続きを見ていきます。

京釜鉄道一件

京釜・京仁鉄道敷設権を我に与ふべきこと、日朝暫定合同条款に規定せる所にして、我已得の権利に属するに拘はらず、韓廷は京仁線敷設権を米人に許可したるは、当時我が地位極めて不利なりし為め是非なき事と云ひ乍ら、極て遺憾の事に属す。
之れに関しては、前来の公使に於て当国政府に詰責する所あり已に形式的の謝罪状を取りたるも、京釜鉄道に至りては、原公使在任中其条款約定の請求を提出して種々交渉を重ねたるも、遂に要領を得ざりしを以て、時勢に鑑みて一時其談判を中止し、之れを懸案となし置きたり。
本官就任后、直ちに此談判に着手せんとせしも、如何せん我に対する朝鮮上下の感情及び諸外国の感情甚だ不可なりしを以て、強ひて如斯事件を交渉するは、其不成功の場合に於て却て困難地位に陥るの虞あるべきを察し、暫機会を待ちたる中に1年有余の歳月を経過したる処、露韓の干係一大変調を来し、露国は決然手を引くの場合に至り、従って韓国上下は我に緊切し来りたるのみならず諸外国も亦た好情を以て我に対するに至りたる折柄、日露新協商成立の事あり、我が勧告に於てなす所の経営に対して露国が差当り表面上の反対をなす能はざる時機に到来したれば、本官は徐々として本案の交渉を開始し、表面は当局者に向って本件は我已得権なること、条款細目の協定に至りては帝国は勧告の状態に深く察する所ありて、3ヶ年に渉りて寛弘大度の辛抱をなしたること、已に他の外国にも夫々コンセスションを許したる上は、我に対してのみ斯く遷延するは、帝国政府が決して容認する能はざる所なる旨を論じ、且つ此上遅疑するに於ては、断然工事に着手する旨を宣言すべしと迄切詰めて談判を試みつつ、裏面に於ては閔泳綺、李載純等を利用し、内密の方法を以て皇帝に対し或は威嚇、或は甘言を以て本案の決定を促しつつある折しも、昨年7、8月の交、駐韓公使に変動あるべき旨本邦新聞紙一斉に記載したるを以て、皇帝は本官の更迭を痛く軫念せらるるに由て承知したるに付、直ちに之れを利用し、本官の更迭は盖し京釜鉄道談判の容易に纏まらざるに原因するならん。
故に若し陛下にして断然本案の決定を許可せらるれば、帝国政府は皇帝の意に忤ふて本官を召還せらるることなかるべしと内奏せしめたり。
於是皇帝は、本官留任の御親電を発送せらるると同時に、京釜鉄道一件を妥協すべき旨を当局者に下命せられたり。
恰好し、当時伊藤侯爵清国漫遊の途次入京せらるべきの報に接したれば、本官は之れを韓廷に内報すると同時に、伊侯は日清戦役当時の首相にして、実に韓国独立の恩人なり。
其来遊に対しては、充分の歓待を尽すべき旨を勧告したるに、皇帝以下政府大臣も大に之れに動かされ、皇族に準ずるの待遇をなすことに内決したるを以て、本官は上下に向って伊侯を遇するに只だ形式的の重礼をなすは、必ずや伊侯の満足を買ふ能はざらん。
韓国君臣は、日韓親和の情を事実に表明するを要すと勧告し、暗に伊侯入京以前に京釜鉄道一件を落着せしめんと勉めたり。
其結果、伊侯入京前日(8月24日)に至り、韓政府は公文を以て是迄種々の事情より延引せしことを謝し、愈々協議を決定すべき旨を申越せり。
斯くて伊藤侯爵の滞在は、非常に我に好結果を与へつつある最中に当り、幸に我陛下より御答電到来したるを以て、韓帝は愈々本案の決定を促され、結局9月8日を以て本条約の調印を了するを得たり。
丁度良い切れ目が無かったので、一気に引用してみました。
京釜鉄道については、9月10日のエントリーの原敬公使時代の記載にもあったわけですが、暫定合同条款があるにも関わらず全く上手く行っておらず、結局一時中断されていたわけです。
で、加藤が公使に就任して直ぐにこの事に当たろうとする。
現に、5月31日のエントリー辺りでは安駉壽辺りとの会話には出てくるわけです。
しかしながら、その当時は勿論高宗がロシア公使館に引き籠もっており、且つこれまでもこの加藤の報告の中で見られたとおり日本に対する風当たりは強いわけで、原公使時代に引き続き暫く様子見してた、と。

就任から1年ほどが経って、これまた度々この報告で出てきたロシアと韓国の間の関係悪化により、ロシアは一切手を引くこととなり、朝鮮の民心や諸外国も徐々に日本寄りになっていく中で、西=ローゼン協定が結ばれ、ロシアは表面上日韓間の商工業の関係に反対できなくなったわけで、加藤は徐々に交渉を開始していくんですね。

表面上は、暫定合同条款による既得権がある事、3年も我慢している事、アメリカへの京仁鉄道の敷設権や、フランスへの京義鉄道の敷設権等は許可したのに、日本に対してだけ引き延ばしているのは、日本政府の決して容認しないところである事などを挙げ、これ以上遅らせるなら断然工事着手を宣言するぞと迄切り詰めて談判を試みる。
裏面では、閔泳綺や李載純等を利用して秘かに高宗に対して、ムチとアメ方式で迫る。

そんな中で、1898年7~8月頃に日本の新聞が駐韓公使が交替するという報道をするんですね。
すると、高宗が加藤の更迭話に心を痛めているとの事を知る。
で、これを直ちに利用。
「自分が更迭されるのは、京釜鉄道の談判がうまく進捗していない事が原因だと思います。もし陛下が京釜鉄道一件を許可されるならば、日本政府もその意に反して私を召還するような事は無いでしょう。」と内奏する。
そこで高宗は、加藤の公使留任の依頼電報を出すと同時に、当局者に京釜鉄道一件を妥協しなさいと命令。

さらに好都合な事に、伊藤博文が清国漫遊の途中でソウルに寄るという報告を受け、加藤は韓国政府に内報するのと同時に、伊藤博文が日清戦争当時の首相であり、韓国独立の恩人だとして充分に歓待するようにと勧告。
高宗や諸大臣もこの勧告に動かされ、皇族に準じた待遇をすることに決定。
・・・国賓待遇?(笑)

で、ただ形式的に鄭重な礼だけで迎えても、伊藤侯の満足を買うことは出来ないだろうから、日韓友好の情を実際に証明する必要があるんじゃない?と。
その結果、伊藤博文入京の前日8月24日、韓国政府は公文書でこれまで引き延ばした事への謝罪と、協議決定すべき旨を通知してきたんですね。
そして最終的に、1898年(明治31年)9月8日、京釜鉄道合同条約が調印されたわけです。

んー、加藤もなかなか悪人ですねぇ。(笑)


ちょっと早いですが、今日はこれまで。



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