「着任当時の状況」、「京城覚書の調印」、「小村公使帰朝と臨時代理公使就任」、「原公使着任、京釜鉄道一件交渉開始」、「依仁親王殿下御来京は悪感情融解の端緒を啓けり」、「還御運動の結果慶運宮に移御」、「還御後の注意及本官辨理公使に昇任の件」、「露韓密約書の件」、「露国士官及び下士官160人聘用に関する件」、「露国士官下士13名来着」、「排露熱勃興及露国士官撤退の件」、「度支顧問アレキセイエフの来韓并にブラオンの地位」、「皇帝称号の件」、「朝鮮に対する感情融和」、「仁川港前灘埋立一件」、「外人に対する感情融和」、「京釜鉄道一件」と見てきましたが、そろそろ終わりが見え始めて来ました。

ってことで、今日はいよいよ独立協会に関する話。
『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続きから。

独立協会の運動

独立協会なるものは、元来日清戦役の後帝国の威勢上下に加はるの時に当り、米国人の勧誘の下に米・露公使等の賛助を得て組織されたる団体にして、内実は日本の勢力を牽制する為めなりと迄伝へられたるものなり。
其会員は、朝野を通じて中々の多数にして、主義と党派を問はず、所謂譜紳と有為の少壮政治家とを網羅し居れども、老成家の部は寧ろ当初儀式的に入会したるに留り、実際時々の会合に出席し真の会員らしきものは、大抵比較的進歩したる思想を有する開化派の少壮有為の人士に外ならず。
此会は、創立以来多少の年処を経たれども、別段政治上の運動に熱中したることなく、寧ろ学術的集合に過ぎざるやの観ありたるに、昨年2月以来排露熱勃興したる折柄、露公使が脅嚇を以て韓廷に迫るに及んで、民論大に沸騰し、此際断然露国士官及財政顧問を罷免し、独立の実を完ふせざる可らずと論議したる当時より、自ら政治結社と化了し民論の中心となりたるを以て、従ふて漸次勢力を増進したるものの如し。
活発なる年少政治家が、其進歩したる思想を以て言論を逞ふし、上にしては元老閣臣の中に隠然之れを誘掖賛助するものあるを以て、其勢力は意外に根抵を有し来りたるを看取したる反対派、即ち露国派は、今にして之れを挫き去らざる可らずと其機会を俟てる時、恰も安駉壽等の計企に係る廃立の隠謀発覚したるを以て、此機に乗じて一網打盡の策を講じ、一方には大捕縛を決行し、一面には皇国協会なるものを使嗾し独立協会に拮抗せしめんと企てたれども、却って皇国協会は離散し、其有力者は独立協会に入りたる様の次第にて、却って独立協会の勢力を強め、其反抗に逢ひて趙秉式・閔種黙等は辞職するに至れり。
当初、独立協会という組織は、日清戦争後の日本の勢力を牽制するために、アメリカ人の勧誘のもとにアメリカ公使及びロシア公使等の賛助を得て組織された団体だといわれるような組織だったらしい。
実質的会員のメインは、開化派の若くて有能な人材。
で、独立協会は創立以来特段政治的な活動はせず、主に学術的な集合にすぎなかった、と。

しかし、1898年2月以降の排露熱が高まった際に、ロシア公使が聘用問題や顧問問題等で韓国政府に脅しをかけるような有様に至って、世論も沸騰し、ロシア士官や財政顧問を罷免して独立しようという議論が出てくる中で、自然と政治結社化していったんですね。
そして世論の中心となっていき、次第に勢力も増大していく、と。

若手政治家が進歩的な思想で言論を思うままにし、元老閣僚の中でも隠然とこれを援助し賛同する者も居り、この勢力の伸びを黙視できなくなったロシア派が、今のうちに叩いておこうと機会を伺っていたところ、7月24日のエントリー辺の安駉壽等による高宗譲位事件が起きる。
で、これを機に独立協会の勢力を一網打尽にしようと、7月28日のエントリーのような逮捕を決行し、一方では皇国協会を使嗾して独立協会に対抗させようとしたものの、失敗。
皇国協会は離散して、有力者は独立協会に参加するような有様となってかえって独立協会の勢力は強まり、その反抗運動によって趙秉式や閔種黙等が辞職に追い込まれた、と。
ある意味、趙秉式一派の自爆ですな。( ´H`)y-~~

つうか、、やっぱり独立協会や皇国協会の話って、巷間の話とかなり相違してますなぁ・・・。

9月に至りて金鴻陸進毒一件起るや、中枢院に於ては陵遅の刑を。
法部に於ては極刑を、各々復活せんとする計画あり。
独立協会は之れを以て文明の国■に副はざるものと見做し、反対の上疏をなすと同時に、毒薬事件に関し不忠の振舞ありとして宮内大臣以下数名の大臣、協弁を弾劾し、宮闕前に集合して示威運動を為すに至り■ては、市民の多数及び官立学校生徒等も業を抛って之れに応援したるを以て、皇帝は右大臣・協弁を免職するの止むを得ざるに至りたり。
之れを独立協会が、韓国政界に跳梁する大勢力となりたる時となす。
而して此勢を馴致したる所以を講究するに、是れ固より野心充満し功名心に富める少壮政客が、進歩したる思想を以て比較的正理を主張するに起因し、英米人等が陰然之れに同情を寄せて鼓吹したるに拠ると雖、結局多年菲政に飽ける民心を鼓舞して、一般に非王室的(アンチダイナスティック)思想を勃興せしめ、市民の後援を得たるの結果たらずんばならず。
独立協会は、如斯して起り、如斯して発達したり。
若し其歩径を誤るなくんば、幸に腐敗の極に達せる韓国政界に一片の清涼剤として、長へに内外の人望を維ぎ得たらんと、独立協会の勢力大に張らんとするに際し、本官は多少の好望を同会に抱き■、9月13日発程。
一時帰朝の途に就けり。
1898年9月に入って毒茶事件が起きる。
で、中枢院は陵遅刑の復活、法部では極刑復活を計画、か。
なんで突然陵遅刑の復活などの話になったのかさっぱり分からなかったんですが、確かに金鴻陸に対する刑罰を前提にしたものだったと考えれば、非常に納得いきますね。

んで、独立協会はそういう刑罰が文明国のすることじゃねーだろと反対上疏をすると同時に、毒茶事件で不忠の振る舞いがあったと宮内大臣以下を弾劾し、宮闕前で示威運動が行われ、結果的に大臣等が辞職に追い込まれる、と。
この辺、8月3日のエントリー辺りそのままですな。
これが、独立協会が韓国政界での大勢力になった始まり、と。

このような勢力を持つに至ったのは、元々、野心を持ち功名心旺盛な少壮の政客が、進歩的思想で比較的正論を主張し、イギリス人やアメリカ人は秘かにこれを応援した事もその原因の一つながら、やはり長年の秕政に飽きた民心を鼓舞して非王室的思想を起こさせ、市民の後援を得ることが出来たのが、最も大きな理由だろう、と。
加藤は、独立協会が道を誤らなければ、腐敗しきった韓国政界の清涼剤として内外の人望を得るだろうと期待して、9月13日に日本へと向かったんですね。

まぁ、結果は「アレ」だったわけですが。(笑)


今日も早めですが、この辺で。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)
加藤増雄の在韓時代(十)
加藤増雄の在韓時代(十一)