加藤の回顧に関する今回の『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』も、既に連載14回目。
ってことで、今日もはりきって行きましょう。

引続き本官は、在朝の有力者及び民会の首領と度々交渉仲裁を尽したる末、結局政府に於ては民会の輿望に■ふべき人士を多少政府に採用し、且つ今後漫りに民会員に対して、危害を加へざるべしとの担保を与ふる迄の譲歩をなさしめ、民会に伺っては漫りに国情の紛擾を加へんよりは、徐々に退きて政府の果して弊政の改革を実行すべきやを監視せよと説き、同時に政府方の腕利き閔泳綺と民会の首領高永根、尹致昊等の間に胸襟を開きて融和せしめ、延きて民会の重立ちたるものをも説得し、密に政府に勧めて韓文新聞紙を買収せしめ、其筆法を一転して政府弁護に勉め、以て民論の気炎を殺ぎたり。
如斯昼夜斡施尽力の結果、遂に旧■12月25日、即帰任後10日にして民会は自ら鐘路の集会を解散し、政府は閔泳煥、朴定陽を収容して民意に副ふを勉むることとなり、漸く紛擾一段落を見るに至り■り。
爾来今日に至る迄幸に民会の再興を見ず、政府も割合に手強く秩序を維持し得るを以て、無事に経過し来れるを得たりと雖、民会派も菲政改革の実挙らざるを機として、稍もすれば再び起たんとするの気鋒を示すこと一再にして止まらざれば、不遠多少の紛擾を見るやも計られず。
この辺は、9月3日のエントリーのとおりですね。
政府側には万民共同会に信頼されている者を入閣させ、且つ今後は万民共同会の参加者に危害を加えない担保を与えさせる。
万民共同会側に対しては、紛擾事件をむやみに起こすよりは、一歩引いて政府がちゃんと弊政改革するかどうか監視しろ、と。
で、反目が著しい政府の閔泳綺と万民共同会の高永根や尹致昊を会見させて融和を図り、さらに万民共同会の重要人物を説得。
一方で政府にはハングル新聞を買収させて政府弁護させる事により、世論が先鋭化するのを防がせる、と。

こうした加藤の尽力で、ついに12月25日に万民共同会は鐘路での集会を解散。
政府は閔泳煥と朴定陽を入閣させて万民共同会の意に沿う事に勉め、ようやく紛擾は一段落、と。
それ以来今日まで万民共同会は再興しておらず、政府も手堅く秩序維持をしており、無事に経過してきているが、万民共同会も秕政改革の実効が挙がらない事を切っ掛けに、ややもすれば再起しようという動きがでるのも再三あるため、遠からず多少の紛擾を見るかも知れない、と。

だから、弊政改革しろ、と。(笑)

木浦海壁築造一件

本件は、元来木浦・鎮南浦租界章程に拠りて当国政府の義務に属する事業にして、其義務を果さしめたるに過ぎざれば、其自体に於て必ずしも重要なりと云ふ能はざれども、何分其規模の比較的に大なると、財政に困難せる当国政府に於て費用を支出せしむるとの為めに、最近難件の一となりたるなり。
初め木浦開港の実施さるるや、其位置の恰好なると港湾の適当なる為め、間もなく邦民多数の往住を見るに至り、朞年ならずして居留民の数千に達したる杯、殆ど他に比類なき長足の進歩をなしたり。
而して、彼等は先づ居留地区の買収に対し皆資本の大半を固定したるも、海壁にして成るなくんば此等の土地は概して埋立に着手する能はず、空く固定資本を抱きて拱手し居らざる可らざる有様なるを以て、同港駐在久水領事は、其居留地会頭たる資格を以て堅牢持久の海壁設計を提出し、主席公使たる本官より韓廷に向って工事着手を要求せんことを申請せり。
韓廷は、固より国費多湍の折柄、一開港場の海壁工事に10万円に近き金員を支出すべき意なきは勿論なれども、木浦の経営は即ち殆んど本邦人の経営にして、海壁の利益は本邦人民が殆んど全部を享受すべきものなるを以て、本官は主席の地位を利用して本件の進行を計企し、先づ各国使臣の同意を得て公然韓政府に照会し、且つ内部より種々の秘密手段を以て其結局に勉めたれども、何分開港の事務は凡て総税務司ブラオン氏の管掌にあるを以て、当局官吏を相手としては到底妥協の見込なきを認め、更に交渉の方向をブラオンに転じたるには昨年7月にして、海壁を築造せんことは、他の使臣の思惑も如何あらんと躊躇せしも、本官は種々の方面より之れを論説交渉し居る中、9月に至り本官は一事帰朝したるに拠り、不在中日置臨時代理公使は、漸次交渉の歩を進め、大体に於て同意を得、設計をも認めしむる迄に運びたり。
12月本官が帰任するに及んで、日置書記官を以て尚ほ交渉を継続せしめたる結果、遂に工費の全部9万5,000円を韓国政府より支出し、工事は一切木浦各国居留地会に一任することに妥協したる上、久水居留地会頭の上京を促し、結局本案の調印を見るに至りたり。
工事は、居留地会より更に日本人に請負はしむることとなるべければ、海壁其物の利益と共に、其工費は木浦に於ける本邦人を潤すべきに付、両途に於て木浦に於ける我邦の経営上、極めて有利の事たるべし。
本官は、本件に関しては特に日置書記官が能く本官を助けて、這般の好結果を収めたる功労を認めずんばあらず。
木浦鎮南浦租界章程って何?と思ったものの、アジ歴は当然お休み中。
しかし、世の中便利なもんで、他にも知る手だてはあるんですな。
ってことで、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに、1906年(明治37年)総督府編『韓国ニ関スル条約及法令』というのがあります。
その中で、「鎮南浦及木浦各国居留地規則」というのがあります。
漢文になっている条文の方のタイトルが「鎮南浦・木浦各国租界章程」であり、調印日が1897年(明治30年)10月16日調印ですので、おそらくはこれでしょう。

つうか、大韓帝国になった直後に史料中のような条約っておかしいと思ったら、「各国」なのね。
278画像目には、閔種黙、加藤増雄、アレン、スペール、プランシー、ジョルダン、クリーンと名前が見られます。
まぁ、取りあえず第1条の該当部分を抜き出してみましょう。

海壁及埠頭

海壁及埠頭は、該港の為め必要ある時に方り、必要なる場所に於て韓国政府之を建設し、且其の費用を以て之を維持修繕すべし。
右海壁及埠頭竝に貨物の陸揚及取扱の為め埠頭に属する開放地の部分は、税関事項に限り韓国政府の管轄に属し、一切の課税を免ず。
但点灯及警察事務は、居留地会之を行ふ。
附属の地図を見ても良く分からんのだけど、泥地部分を埋め立てる話なのかな?
まぁ、兎も角当該規則においては、ご覧の通り海壁の設置は韓国政府の義務なわけで、その義務を果たさせただけなので、それ自体は重要じゃない、と。
しかし、規模もでかいし韓国政府には金は無いしで、結構交渉が難しい件になったんですね。
いや、それ以前に「朝鮮国ニ於テ日本人民貿易ノ規則(日朝通商章程)」とか、「暫定合同条款」とか、「日韓協約」その他諸々、約束を守らせる方が困難だと思ったり。(笑)

木浦開港以来日本人の多くが住むようになり、貿易港として有力になる。
で、日本人は居留地の買収の手当も済んだのに、海壁が出来なければ埋立に着手できないため、手をこまねいている状態であり、木浦駐在の久水領事が木浦居留地会頭の資格で海壁設計図を提出した上、加藤に工事着手を韓国政府に要求してくれ、と。
まぁ、韓国政府には金も無いわけで、一つの港の海壁工事に10万円近い金を出す意志が在るはずもなく、また木浦はほとんど日本人の経営であり、海壁作っても日本人の利益にしかならない。
そこで加藤は、まず各国使臣の同意を得て、公然と韓国政府に照会すると同時に、内部には「秘密手段」で迫って実現を図ったものの、開港の事務は総税務司のブラウンが管掌しているため、当局官吏に言ってもしょうがないってことで、交渉相手をブラウンに絞る。

そんな中で、加藤は日本へ一時帰国する事になり、日置臨時代理公使がその交渉を進め、しかも大筋で合意に達するわけですな。
というわけで、加藤の帰国後も日置に交渉を継続させた結果、遂に9万5,000円の工費全額を韓国政府から支出させ、工事は木浦居留地会に一任させる事に成功。
この件の調印に至った、と。
んー、日置すげぇ。(笑)


今日はこれまで。
次回で終われる・・・かな?



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