振り返ってみると、凄い楽しみながら作戦参加したなぁ、と。(笑)
ってことで、第3回。
ちゃっちゃと先に進みたいと思います。


2005年1月18日
「箱根会議」に基づく作戦会議が総督府内において行われる。
目標に選定された李泰鎮氏の当該報道について、攻撃の切り口の決定、必要な史料と関連する報道の収集、李泰鎮教授の連絡先の入手などを行うことが定められた。
また、jpn1_rok0によってそれを基にした作戦計画骨子が策定された。


2005年1月19日
アジア歴史センターにおける関連史料が総督府内に次々に上げられていく一方、在東京の総督府員は、外交史料館において当該簿冊『韓国王妃殺害一件』等から関連する史料の複写申請を行った。
また、そこで確認されたいくつかの事実について総督府内で情報公開された。

①外交史料館で確認した原史料と李泰鎮教授が示した画像は別物(画像の史料は原史料を何者かが筆写した物と思われる)。


②別掲の地図を無条件に内田報告書の添付物と認定しているが、これを本当だとすると閔妃は事件当夜、高宗の居室にいた事になる。

③やはり内田定槌が現場確認したのは事件後であり、本文中の話は伝聞情報に過ぎない。

以上3点が判明し、補足として当該文書のある簿冊『韓国王妃殺害一件』が、少なくとも昭和46年には一般公開されていた事を外交史料館職員より確認した。

この①の時点で、既に歴史家として行ってはいけない事である事が指摘される。(というか、NAVERで歴史討論する日本人以下である。)
またこの時、「示」にのみ振り仮名が附されている等、別な視点からも李泰鎮教授が原史料を見ていない事が疑われている。

同時に、李泰鎮教授に対する本質的なバファリン作戦を「正」と位置付ければ、「副」、つまり広報的な要素において使用される事となるNAVER日韓翻訳掲示板において、その活動を全うするための招集スレッドが立てられた。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1028102

この日、韓国側「ネチズン」は警戒感を露わにし、次々と誹謗スレッドを上げた。
その遣り取りの中で、最も総督府内の笑いをとったのが、韓国人側ID yumipop による「yumipop : 韓 - 日本外務省敷設外交資料官で見つけた文書....ところで異態陣教授は日本語ができないと聞いたが....文章読解は可能なのか?」であった。

ニュースが貼られた直後の「李泰鎮、日本語出来ない筈なんですがねえ(笑)」の言のあるとおり、既に総督府内においては李泰鎮教授が日本語を出来ない、或いは出来ても不得手であるのは周知だったのである。
日本語が不得手な教授が、どのようにして当該史料を「新発見」したのかについて、我々の注目の的であったのは言うまでもない。


2005年1月20日
当該簿冊『韓国王妃殺害一件』は、2003年7月の外交史料館レファレンス情報において既に掲載されており、インターネット上においてすら公開情報である事が確認できると判明。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/kai_genjo/kodo_sj/pdfs/hokoku_10.pdf

朝鮮日報日本語版(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/01/13/20050113000000.html
)における、「日本側の資料が初めて公開された」及び「外交史料館で最近捜し出した機密文件「韓国王妃殺害一件第2冊」に収録された写本を公開」という記述に関して、一頻り笑いがおこる。
どうやら韓国で公表されていない史料は、公開史料であっても「新発見」出来るらしい。


2005年1月23日
三悪人会議が開催され、投下する爆弾(質問状)の骨組みが完成。(三悪人とは、NAVERにおける日本側ID zeong、polalis 、jpn1_rok0 の3人を指す)
この時点では、韓国本土爆撃の初弾投下は3月1日(3.1独立運動の日に当たる)に設定されていた。


2005年1月25日
外交史料館から当該史料の複写が届く。
しかし、入手した倭人はIT大国の住人ではなく、スキャナーを持っていなかった・・・。


2005年1月30日
総督府政治部員の忘備録より
「hermeth > かわいいか・・・なほちゃん。お兄ちゃんの趣味ってわかんない・・・ (18:47:30 30-Jan-2005)」>全ての始まり


今日はこれまで。



一次史料に見るバファリン作戦(一)
一次史料に見るバファリン作戦(二)