前々回から前回までは、1908年(明治41年)3月30日付『来電第33号』と、それに添付されていた1908年(明治41年)3月25日付サンフランシスコ・クロニクル所載記事及び1908年(明治41年)3月24日付ロサンゼルス新聞所載記事抄訳を見ました。

今日はまず、その1908年(明治41年)3月30日付『来電第33号』に対する、曾禰副統監から林外務大臣への1908年(明治41年)4月1日付『往電第20号』より。

来電第33号「スチイヴンス」殺害事件に関し、検事等の希望に応ずる為必要と認むべき書類は、取揃へ発送すべし。
尤、統監府設置以来の施設事業に関する取調書類は、在東京事務所より貴省に直送する筈なり。
んー、ここで言う在東京事務所ってのは、どこの東京事務所なんだろう?と思ったら、次の史料で判明します。
兎も角、1908年(明治41年)3月30日付『来電第33号』での検事の要望に添う史料は発送するよ、と。

続いて、1908年(明治41年)4月1日付『往電第172号』。

左の通り統監府出張事務所へ御伝達ありたし。

第65号
「スチイヴンス」殺害に関する裁判上、検事の希望に応ずる為、我政府に於て韓国の進歩開発を助けたる事実并に我に対する非難の不当なることを弁明すべき材料必要なるに付、右に関する書類至急送付せられたき旨、桑港帝国総領事より外務大臣に請求ありたる趣、同大臣より電報あり。
因て、議会の参考に供したる韓国に於ける各種施設事業の取調書類、并に今回鶴原長官携帯書類中有用なる書類一括して同省に進達せられたし。
というわけで、先の『往電第20号』での「在東京事務所」というのは、総督府の出張事務所らしいですな。
つうか、そんなんがあったとは恥ずかしながら初耳。(笑)

で、議会の参考資料として使った韓国での各種施設事業の取調書類と、鶴原定吉総務長官が携帯してった書類の中で有用なものを一括して外務省に送れ、と。

続いて、話が遺族への吊慰金の話に戻ります。
1908年(明治41年)4月1日付『来電第24号』より。

韓国政府より、「スチーヴンス」遺族贈与の件は同国政府の名を以て遺族へ通知方当■に■。
11月7日のエントリーの韓国政府分5万円の件でしょうね。
当然、韓国政府の名で遺族に通知して欲しい、と。
まぁ、当然の話なわけで、韓国政府に対して次のように返事が出されます。
1908年(明治41年)4月2日付『統発第1964号』。

貴政府より「スチーヴンス」遺族へ金5万円贈与の件は、伊藤統監に於て貴政府の名を以て同遺族へ通知方取計済なる旨通牒有之候條、右御諒承相成度、此段及通牒候也。
もう伊藤統監が韓国名義で遺族に伝えるよう取り計らい済みだから、心配すんな、と。

その5万円に関して、別途次のような電文が出されます。
1908年(明治41年)4月3日付『来電第120号』より。

第27号 林外務大臣来電
韓国政府より「スチーヴンス」遺族に対替へ送付有之様依頼し置けり。
仍て、韓国政府に御交渉の上、至急金5万円を外務大臣へ電送方御取計相成りたし。
ここでの対替ってのは、支出が直接収入を伴う経費を指していると思うんだけど、日本側で立替払いをするから、5万円は外務大臣へ送るように交渉しろって事かな?
それとも、収入を受けてから支出する形になるのかな?
どっちか良く分からん・・・。

兎も角、この5万円は直ちに送金される形になったようです。
1908年(明治41年)4月4日付『往電第177号』。

韓国政府より「スチーヴンス」遺族へ贈与すべき金5万円は、直に貴省へ向け送金すべき旨、本日同政府の公文に接せり。
これで、スチーブンスの遺族に対する遺族扶助の話は、取りあえず一段落。

続いて、11月8日のエントリーの1908年(明治41年)3月29日付『往電第167号』の絡みだと思われますが、スチーブンスの葬儀に関する件。
1908年(明治41年)4月4日付『来電第124号』より。

「スチーヴンス」葬儀は、来8日、華盛頓に於て施行することに決したる旨、高平大使より来電あり。
こうして、スチーブンスの葬儀は、4月8日にワシントンで行われる事になりました。


ちょっと早めながら、今日はこれまで。



スチーブンス暗殺事件(一)
スチーブンス暗殺事件(二)
スチーブンス暗殺事件(三)
スチーブンス暗殺事件(四)
スチーブンス暗殺事件(五)