さて、前々回前回で在米韓国人の状況を見ました。

今日は、直接事件と関連している部分があるものの、その他の部分がかなりあるため、その部分だけ紹介しようか、辞めようか迷った史料なんですが、以前一部抜粋して紹介済みだったことを思い出しまして。(笑)
結局全文紹介する事にしました。
ロシア領土内の韓国人に関する報告になりますが、時期が半年近く飛んでいます。
前にも述べたように、捜査も裁判もアメリカ合衆国がやってるわけで、その間の情報が殆ど入ってこなかったんでしょうね。

長いので、分割しながら。
内部警務局長松井茂から、副統監曾禰荒助への1908年(明治41年)11月25日付『高秘発第17号』より。

露国領土内に於ける、韓国人匪徒状況に関する左記最近の情報を得たるを以て、為御参考及報告候也。
ってことで、1908年末のロシア領内の、韓国人匪徒、所謂義兵の最新情報ってことですね。

○ 別紙

一.浦鹽以南、咸鏡北道以北、露領沿海州に居住する韓国人口約20万人。
其中、露国に帰化手続を了したる者約3,000人と称す。
加之単独若くは家族を携帯して露国に出稼移住する者、年々其数を増加し、本年城津理事庁より旅券を下附せる者既に4,400余人に達したり。
其他の地方よりする者及無旅券渡航者を加ふるときは、1ヶ年間約2万人を下らざる状況なりと云ふ。
いつか詳しくやろうとは思っていたんですが、アジア歴史資料センターの『露国政府ハ同国ニ帰化シタル朝鮮人ニ土地ヲ附与シテ露国国籍ニ編入セシメンカ為測量ニ着手ノ件ニ関シ在浦潮二橋貿易事務官ヨリ申報ノ件/公文雑纂・明治二十九年・第九巻・外務省一・外務省一(レファレンスコード:A04010020300)』辺りを見ると、移民帰化者には1町歩の土地が与えられるなど、1896年(明治29年)には既に政策的に移民を誘致していたようですが、1908年には沿海州の韓国人の人口約20万人に膨れあがった、と。
勿論、移民だけではなく、敗残義兵なんかの単なる食い詰め者も多いのでしょうが。

一.露国政府にては、農夫問題融和の必要上本国より西比利亜方面に農夫の移住を奨励し、諸種の便宜を与ふる為め、前年約50万人、本年も略■同数の移住者あり。
其再び本国に帰還せる約半数を控除するも、2ヶ年間に約50万人の移住者を得たるものの如し。
如斯、将来露本国より多数の移住者を得るの見込あるを以て、最早韓国人の移住帰化を必要とせず、本年4月黒龍江沿道軍管区総督「ウンテルベルケル」は、管下鉱山業者に対し鉱山に韓国人の使役を禁じたるが為め、自然他の工事にも韓国人夫を使役せざるに至りたるより職を失ふ者多く、為めに陸続帰還者生ぜり。
然れども、亦止りて無頼の徒に化する者少なからざるが如く、崔才亨の如き、頃日来此等の鉱夫数百を招致し、賊勢を盛にせりとの説あり。
しかし、この頃になるとロシア本国人のシベリア移住が奨励され、2年間で約50万人に達し、将来も多数の移住者を得る見込みがあるため、もう韓国人の移住帰化いらない、と。(笑)
おまけに、1908年(明治41年)4月に黒竜江付近で鉱山に韓国人の使役を禁じたため、自然と他の工事にも韓国人夫を使わなくなり、職を失って国に帰る者が出てきたんですね。
つうか、これは強制連行じゃないのね。(笑)

勿論、ロシアに止まって無頼の徒となるものも少なくないようで、崔才亨は鉱夫数百人を招いて勢力拡大しているという説もある、と。

一.韓国人は、黒龍江以南の沿海州を3郡に分ち、「ノウオキエフスキー」を烟秋郡、「ニコリスク」を秋豊郡、其他を水靑郡と称す。
而して此地方は、所謂匪徒の根拠地たり。
浦鹽港は約7、8千人の韓国人居住するも、概ね労働者にして、匪徒に対しては勢力なきものの如し。
匪徒根拠地方の韓人間に、頻りに喧伝せらるる流説によれば、露国官は居住韓国人有力者に対し、韓国は我敵国たる日本の保護下に立つに至りたるを以て、露国は最早韓国人を保護し、其帰化を許すの必要を認めず。
速に去て日本に倚るべしとて、西比利亜より在留韓人の退去を命ぜんとしたり。
此に於て李範晋(日露戦争当時の露国駐在公使)、李範允(往年の北艮島「間島」監理使)及崔才亨(露国籍に入りて「ペチカ」と称す。韓人は崔都憲と呼ぶ。都憲とは総代の謂なり)等は、我同胞中露国国籍を取得したる者既に3千余人に達し、其他の約20万人も亦、皆な露国の徳澤に浴せんことを望み遠く移住せしものにして、毫も日本の保護を望むものにあらずと哀願し、漸く其許可を得たり。
実に安穏に露国内に居住し得るは、李範允等の恩恵なりとて匪徒に応じたる者多しと。
此説素より李範允等の故造に出たるものの如し。
韓国人匪徒、所謂義兵の根拠地地方で噂が流れてる。
どういう噂かというと、ロシアは、韓国が日本の保護下に入ったからもう韓国人を保護したり帰化を許す必要を認めず、日本に頼れば?ということで、即刻シベリアから退去しろと命令しようとしたので、李範晋、李範允、崔才亨なんかが哀願して、居住の許可を得たってもの。
しかしながら平穏にロシアに居られるのは、李範允達のおかげということで、匪徒に応じる者が多い。
最初から李範允なんかがワザと流した噂だろう、と。
あからさまに嘘だろ。(笑)

一.李範允は、烟秋居住同地屈指の富豪崔都憲(元慶興府の一貧民)の設立せる私立学校教師たりしが、昨年京城の変より解隊兵及匪徒敗走者等来りて急を訴ふるに及び、崔都憲其他の同志者も亦李範允に暴徒を勧告し、崔都憲より軍糧資金の供給を為すことを約し、往年李範允が太皇帝陛下より下賜せられたる鍮尺馬牌を利用し、且檄文を発し、配下崔秉俊・朴某(露名「アレキサンドル」)・厳仁燮を各地に派し、李範允は露国官憲の保護あり。若し命に従はざる者は国賊と看做すべしと云はしめ、資金糧食の徴募に奔走せしめ、住民其強制を恐れ多少の出資を為さざる者なしと云ふ。
李範允については、安重根シリーズハーグ密使事件等で何度か顔を出し、軍資金募金詐欺行脚では、部下のしでかした事で単独エントリーされるなど、地味に頻出の人物です。(笑)

で、元々崔都憲の設立した学校の教師だったけども、韓国軍解散及びその後の匪徒敗走が逃げてきて急を訴えたので、李範允が往年高宗から貰った鍮尺馬牌を使って檄文を発して、配下を各地に派遣して「李範允はロシア官憲の保護がある。もし従わなければ国賊とみなす」として資金糧食集めに奔走させたため、住人などは怖がって多少の出資をしない者はいない、と。

ヤクザかよ!( ´H`)y-~~
いや、似たようなもんだけど。

あと、李範允の馬牌については、昨年の8月10日のエントリーでも若干触れている。
こういうちょっとした記述が散在しているだけなので、中々一つのエントリーに纏まらないんですがね・・・。

一.銃器は李範允が日露戦争当時、露国の為め組織せし監理軍に供給せられ、尚彼の手に残存せる銃器及往年馬賊防禦用として露国官憲より住民に下付せられたる廃銃、并に従来韓国人の所蔵せし火縄銃等にして、其数多きが如し。(銃器中猛獣射撃用とせる5連発銃は、其威力恐るべきものありと)
然れども、弾薬の供給意の如くならず、屡々人を浦鹽港に派し之が買入に奔走せしむるの形跡あり。
彼の「スチーブンス」氏を暗殺したる田明雲が突然浦鹽港に現はれたるは、米国より弾薬輸送の任に当りたるものなりとの説あるも、信じ難し。
今回の長い史料の中で、本題その1の部分です。(笑)
銃器は、日露戦争当時に李範允がロシアのために組織した監理軍に供給されたものの内、残っているものと、以前馬賊防禦用にロシアから配布された廃銃、以前から韓国人が持っていた火縄銃があり、銃器自体の数は多いものの、弾丸の供給がままならず、人をウラジオストックに派遣して買い入れに奔走させた形跡があるんですね。

で、今回のターゲットの一人田明雲が突然ウラジオストックに現れたのは、アメリカからの弾丸輸送の任務に当たったという風説があるけど、信じ難い、と。

さて、スチーブンス暗殺事件から半年後、田明雲が突然ウラジオストックに降り立ちました。
果たしてこれはどういう事なのでしょうか。


ってとこで、1908年(明治41年)11月25日付『高秘発第17号』も途中なんですが、まだ半分くらいなので、今日はこんなところで。



スチーブンス暗殺事件(一)
スチーブンス暗殺事件(二)
スチーブンス暗殺事件(三)
スチーブンス暗殺事件(四)
スチーブンス暗殺事件(五)
スチーブンス暗殺事件(六)
スチーブンス暗殺事件(七)
スチーブンス暗殺事件(八)
スチーブンス暗殺事件(九)
スチーブンス暗殺事件(十)
スチーブンス暗殺事件(十一)