さて、長かった1908年(明治41年)11月25日付『高秘発第17号』ですが、アメリカで裁判受けてた筈の田明雲が、何故かウラジオストックに滞在している事が判明しました。
実は、韓国統監府はこの情報は掴んでいなかったらしく、鍋島外部部長から東京の小松書記官宛に、確認の電報が出されます。
1908年(明治41年)12月2日発『往電』より。

「スチーブンス」に対する凶行者の一人なる田明雲は、現に浦潮須徳に在り。
同人は、無罪となりしや又は逃亡せしや、今日迄外務省より何等の報告なし。
我桑港総領事館よりは、何等かの報告外務省に達し居ると思考す。
同省に付御聞合せの上報告ありたし。
サンフランシスコに居る筈の田明雲が、前回ウラジオストックに滞在している旨の報告が、内部警務局長の松井茂からもたらされたわけで、当然その情報を得ていない統監府は、外務省には連絡来てんだろ?と照会するわけです。

んで、これに対する返電が、1908年(明治41年)12月3日発『来電第203号』になります。

田明雲に関し、外務省に到着したる最終の報告(8月12日)に依れば、同人は去る7月中保釈となり、或は無罪として放免せらるるの虞あるに付証拠蒐集中なる趣。
尤も、同人が如何にして浦鹽に来りたるや不明なるに付、桑港総領事に問合はさるる筈なり。
外務省に到着した1908(明治41年)8月12日の最終報告では、田明雲は7月中に保釈或いは無罪放免となったようで、証拠を集めてる最中らしい。
尤も、田がどうやってウラジオストックに来たのかは不明なので、サンフランシスコ総領事に問い合わせる筈、と。
んー、やっぱり外務省に報告来てるってことは、アジ歴にその内史料挙がるだろうなぁ。
つうか、保釈か無罪釈放かって、全然違うわけですが・・・。

で、この電報に更に追加電が来ます。
1908年(明治41年)12月11日発『来電』より。

田明雲は保釈中、8月以降踪跡不明なりしが、検事は本月10日を以て遁走と認め、其の事実を発表したる旨、桑港総領事より外務省に電報あり。
就ては同省より浦潮領事館に照会する筈なるも、統監府に於て同人の現住所及行動等確実に御承知ならば、折返し電報ありたし。
田明雲は保釈中の8月、突然行方不明に。(笑)
検事は12月10日で遁走したと認めて、その事実を発表したと、サンフランシスコ総領事から外務省に電報。
4ヶ月も経ってから?
何か間違ってる気がしますな。
そもそも田明雲の方って、鉄砲撃とうと思ったら壊れてて、スチーブンスに殴りかかって田明雲自身より強かったから逃げた方なわけで、悪くて殺人未遂と傷害罪程度でしょうし、わざわざ保釈中に逃げるとも思えませんな。

兎も角、外務省からウラジオストックの領事館に照会する筈だけど、統監府で田明雲の現住所や行動等確実な情報を掴んでいたら、折り返し電報くれ、と。

これを受けた統監府の報告。
1908年(明治41年)12月12日発『往電』より。

田明雲の所在は略判り居れり。
されど、浦潮領事官は同地在留韓国人に対しては、何等の手出しも為し能はざる情態に在る旨、韓国側密偵(日本人)の報告あり。
故に、単に田の所在を同領事官に照会せらるるのみにては、之を突止ることも出来難かるべし。
同人の行動及宿所は、追て詳しく電報すべし。
田明雲の居るところは大体分かってるけどさぁ、ウラジオストックの領事官ってウラジオの韓国人には手出しできねーよと密偵の報告があったんで、単に田明雲の所在をウラジオストック領事官に照会しただけじゃ、突き止めること出来ずらいだろう。
田の行動や宿所は、そのうち詳しく電報するから、と。

この話の中での詳報が、1908年(明治41年)12月14日発『往電』になります。

本月12日電報に関し、韓国側の確かなる報告左の如し。
田明雲は、10月6、7日の頃は浦潮の町はづれなる韓人町開拓(羅馬字 Kueechok)の韓人宿李致坤方に在り。
桑港にては無罪放免せられたれど、再び米国に帰りたくなしと称せり。
当時同人は頗る窮迫し、露語を学ぶ為め通学せる夜学校の月謝半月分1円50銭の支出にも差支居りたる程なりしが、同地在留韓人中同人の為め募集したる旅費を与へむとしたるをば、是れ我を迫はむとするものなりとて謝絶せりと云ふ。
尚、同地韓人は10月初旬迄に3回同人の為め歓迎会を開けり。
右貴官より外務省に御通知ありたし。
ってことで、田明雲自身は無罪放免と言ってる。
尤も、もうアメリカには帰りたくない、と。(笑)
で、来た当時は非常に困窮しており、ロシア語を学ぶための夜間学校の月謝半月分の1円50銭すら払うのに差し支える程だったけど、ウラジオストックの韓国人が彼のために募集した旅費を与えようとしたら、これは僕を締め付けるからと謝絶したそうだ。
む、田明雲、中々格好いいじゃん。
と思ったけど、もしかしてこれは、「ウリをアメリカへ押しやらないで下さい。頼みです~<;; `Д´>」ってことか?(笑)

さて、田明雲に関する一連の報告で思い出したのか、タイミングが良かっただけなのか、サンフランシスコ総領事からの電報が統監府に転電されます。
1908年(明治41年)12月25日発『来電第207号』より。

桑港領事より25日、左の通電報あり。
趙仁漢の裁判は、先週月曜日開審。
昨夜12時、「トライヤルジユリー」にて2等刪減、本刑期を10年以上と決定。
来る土曜日、判事の裁判宣告ある筈。
被告は今日にては控訴せざる模様。
さて、殴りかかって、逆にスチーブンスが強かったから逃げただけの田明雲とは違い、実際にスチーブンスを撃った張仁煥の方の話ですね。
刑期10年以上と決定され、いよいよ、土曜日に判事の裁判宣告がある筈だ、と。

途中の経緯が、ここまでの史料だと全く分からん。(笑)


今日はこれまで。



スチーブンス暗殺事件(一)
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