前回終わったはずのスチーブンス暗殺事件の連載ですが、ちょっとおまけ。
いやね、僕とした事が、独立記念館の記述を取り上げるのを忘れてまして。(笑)
ってことで、ちょいと見てみたいな、と。
まずは張仁煥に関する記述を一気に引用。

張仁煥 張仁煥

平安南道平壌出身である。

1905年2月、労動移民としてハワイに行った。
また、1906年8月米国本土のサンフランシスコで組織された米州韓国人の独立運動団体である大同保国会の会員になった。
主に鉄道やアラスカ漁場で働きながら独立運動の道を摸索した。

1908年3月、大韓帝国外交顧問であったスチーブンスは、日本帝国主義(以下、日帝と略す)の大韓帝国外交権強奪で国際与論が悪化すると、日帝の指令で自分の国の米国で大韓帝国の無能力を積極弘報し、日帝の侵略行為を正当化する宣伝活動をしようとサンフランシスコに到着した。
スチーブンスは3月21日サンフランシスコに到着して新聞記者たちに乙巳勒約(第二次日韓協約)を庇護し、韓国を批判する内容の発言をした。
このような内容の演説が米国の各新聞に発表されると、米国の中にも特に、サンフランシスコとその隣近地域に居住していた在米韓国人の独立運動団体である共立協会と大同保国会の会員たちは、1908年3月22日、共立会館に集まり対策を討議した。
まず崔有渉・鄭在寛・文譲穆・李学鉉などをスチーブンスのところに送り新聞に報道された内容について詰問して取消を要求することにした。
しかし、同胞代表たちに会ったスチーブンスは無礼な態度で売国奴李完用を忠臣といったほか、侵略の首魁である伊藤博文がいてこそ韓国と東洋は幸福であるし、韓国人は愚かで独立する資格がないと喋るなどの暴言をした。
このようなスチーブンスの傲慢で傍若無人な言動は同胞代表たちを激憤させ、我慢できなくなった鄭在寛がスチーブンスの顎を強打し、他の代表たちも椅子でスチーブンスを乱打する騒ぎとなった。
同胞たちの欝憤は旅館の他の人たちの制止でこれ以上は晴らせなかった。

会館に戻ってきた代表たちから一部始終を聞き伝えた多くの同胞たちは、日帝の侵略行為を称賛、鼓舞するスチーブンスの行動に激怒して処断方法を論議した。
しかし、この日は討議だけで結論を見い出すことはできなかった。
一方、張仁煥はスチーブンスの妄言と行動について断固たる膺懲をしようと決心した。
彼はすでに日帝の走狗になって嘘の宣伝と祖国実状の歪曲を繰り返すスチーブンスに対し、糾弾と反駁だけでは実效をあげることができないと思った。
張仁煥はスチーブンスの罪悪を膺懲し、韓国国民の自主独立精神を世界万邦に知らせようと決心した。

1908年3月23日朝、スチーブンスがワシントンを出発しようとサンフランシスコのフェリー埠頭に日本領事小池といっしょに到着した。
その時、張仁煥がスチーブンスに銃を構えようとすると、突然一人の男が現れ、拳銃を持ったままスチーブンスに向かって突進し、驚いた日本の走狗との格闘になった。
その男は田明雲であった。
張仁煥と同じく、侵略元兇であるスチーブンスを処断するために待っていたところ、スチーブンスが現れると拳銃を発射したが、不幸にも不発であったためスチーブンスに飛びかかったのである。
しかし、張仁煥は機会を逃すわけにはいかなかった。
彼はスチーブンスに向かい拳銃を3発発射した。
連続3発の弾丸の中、2発がスチーブンスの胸と足に命中し、1発は肩に当たった。
張仁煥とスチーブンスは銃声を聞いて出動した米国の警察によって病院に移送された。

義挙を成功させた張仁煥は拘束された。
彼は審問する米国判事に「スチーブンスが保護条約に賛成したことは二千万同胞を毒殺しようとしたも同然だ。この盗賊を殺さなければ我が同胞が必ず滅亡することになる。だから、私が命をかけてやったのだ。」と堂々と義挙理由を明した。
このような彼の愛国精神は多くの同胞たちの愛国心を高揚した。
それに米国人さえも彼の義挙に感動した。
一方、張仁煥の正義たる銃弾洗礼を受けたスチーブンスは3月25日病院で死亡した。
張仁煥・田明雲の二人は1908年12月米国法廷で、田明雲は保釈、張仁煥は懲役25年の刑を言い渡され投獄された。
その後、張仁煥は1919年1月10日仮釈放され、1924年4月10日には完全に自由の身になった。
彼は1927年4月20日一時帰国したが、日本帝国主義者たちの監視と、服役による健康悪化のため同年10月11日サンフランシスコに帰って生活中、1930年4月24日死亡した。
政府では故人の功労を称えて、1962年、建国勲章大統領章を追叙した。
これはこれで面白い読み物。(笑)
まぁ、当然突っ込みどころも色々あるわけですが、細かいところは連載と見比べながらほくそ笑んであげて下さい。
ここでは、一言だけツッコミを。

「堂々と義挙理由を明した」んなら、収監中から発狂したふりしてんじゃねーよ!(笑)

続いて、田明雲に関する記述。

田明雲 田明雲

平安南道平壌出身である。
ソウル漢城学院で修学中の1905年5月、労働移民としてハワイへ渡った。
1906年6月、米本土に渡って鉄道労動者・アラスカ漁場労動者として働きながら米国独立運動団体である公立協会の会員になり、主に青年会で活躍した。

1908年3月当時、大韓帝国外交顧問米国人スチーブンスが、日本帝国主義(以下、日帝と略す)の走狗として日帝の侵略行為を正当化する宣伝活動をしようと本国に戻って来た。
スチーブンスは到着後の記者会見で、日帝の韓国統治は正当なことで、日帝の統治だけが韓国を発展させるとの妄言を繰り返した。
米国内の独立運動団体である公立協会と大同保国会会員たちは激怒し、代表者を選出してスチーブンスに送り、彼に妄言を取り消すよう要求することにした。
しかし、代表の要求が無視されると、公立協会と大同保国会でスチーブンスの処罰方法を論議したところ、田明雲が志願した。

田明雲は、1908年3月23日午前9時30分頃、スチーブンスがワシントンへ行くために、サンフランシスコ駐在日本領事小池の案内でフェリー船艙に到着するのを見て拳銃の引き金を引いたが、弾丸が発射されなかった。
すると、拳銃を持ったままスチーブンスに突進して拳銃で加撃し、暴れるスチーブンスと格闘になった。
この時、張仁煥が銃弾3発を発射し、2発はスチーブンス胸と足に、1発は肩に命中させた。
田明雲と重傷を負ったStevensは米国警察によって病院に運ばれ、張仁煥は逮捕、拘束された。


田明雲は病院で、スチーブンスを襲撃した理由を聞く米国警察に次のように言った。
「日本がロシアと戦い始めた際、韓国の独立を保障すると宣言したが、今になって我々の国権を奪い、財政と官職を牛耳り、憲兵巡査が全国に溢れている。そのため私は米国に来て学業に専念し国家に献身しようとしたのに、この頃スチーブンスが至る所で「韓国人が日本人を歓迎し日本人に感謝する」と吹聴している。これは韓国をだまし軽蔑しているに違いない。それで私がこの泥棒を殺そうとしたのだ。」
彼のこのような義挙動機は、米国の各新聞に報道され、米国内の同胞たちはもちろん米国人たちまで田明雲の愛国心に感動した。
彼は退院後、米国警察に拘束され審問を受けた。
同年7月、僑胞たちの助けで保釈・釈放された。

以降、9月にロシア沿海州へ渡り、独立運動団体である同義会に加入して活躍した。
また、再びサンフランシスコに帰って来て、義勇軍を組織し、軍資金を募って上海臨時政府に送ったりした。
政府では故人の功労を称え、1962年建国勲章大統領章を追叙した。
こちらも、詳細は連載を見てきた読者諸氏の判断にお任せします。
でね。

田明雲が病院に運ばれた理由が書いてないんですが、何で?
ねぇ、何で?(笑)
ついでに、2発はスチーブンス胸と足に、1発は肩にとわざわざ分けて書いてあるのは、何で?
ねぇ、何で?(笑)



ってことで、おまけ、おしまい。(笑)



スチーブンス暗殺事件(一)
スチーブンス暗殺事件(二)
スチーブンス暗殺事件(三)
スチーブンス暗殺事件(四)
スチーブンス暗殺事件(五)
スチーブンス暗殺事件(六)
スチーブンス暗殺事件(七)
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スチーブンス暗殺事件(九)
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