準備しておいたのに、すっかり忘れてた事がありまして。
張仁煥と田明雲の写真を見つけてたのに、すっかり使うの忘れてました。(笑)
ってことで、『スチーブンス暗殺事件(おまけ)』に追加しておきましたので、ご覧になりたい方はどうぞ。

さて。
今日は、万民共同会の運動の結果中枢院の議官となった李承晩が、どのようにして墜ちていくかを主眼にした、以前の連載への補足の3回目。

前回までの史料の中で、主に朴泳孝の任用問題に関して、中枢院・万民共同会とそれに対する高宗等の対応を見ることができました。
結局、この問題については万民共同会がこれ以上運動しないということで、決着がつくかに思われますが、という続き。
今回から、史料はアジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関シ其後ノ成行等ニ付在韓加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049600)』に移ります。
それでは、1899年(明治32年)2月13日付『送第35号』より。

朴泳孝召還の建議に関し、其後の成行等別紙の通在韓加藤公使より報告有之候間、右寫茲に差進候也。
ってことで、前回「本問題は向後有無の間に立消へ可申姿に有之候」と述べていた加藤増雄公使ですが、その後の成り行き等の報告があったようです。

ってことで、早速『別紙』の方を見ていきましょう。

朴氏召還問題後の成行

朴泳孝召還の説端なく中枢院の議事に上り、其決議を政府に定収したると同時に、李錫烈なるもの亦召還上疏をなしたるに、陛下は李氏の上疏を斥け、且つ亡命者に関する詔勅を下して之れを制止せられたる一件は、客月12月27日附公信第88号を以て報告に及置たる処、其後陛下の逆鱗一方ならず、為之中枢院議官は総免職となるべしと取囃せし処、之に関し議政府と中枢院との間に数回の往復交渉を経、同院議長の進退伺ひとなり、竟に去27日議長代理として該議事を見たる李時宇以下、去る3日を以て処分せられ、李氏は1ヶ月の罸俸に処せられ、動議者崔廷徳并に議長代理として政府に通牒の手続をなしたる尹始炳両氏は免官となり、申海永・魚瑢善・卞河璡・李承晩・洪在箕5氏は免官に。
劉猛・洪正厚・鄭恒謨3氏は始めに不可を唱たるも、政府に通牒するを賛成したりしとて各罸俸に処せられ、為めに勢焔頓ど煙滅に帰したり。
朴泳孝召還の件が中枢院の議事となり、その決議を韓国政府に提出したのと同時に、李錫烈も朴泳孝の召還上疏したところ、高宗が李錫烈の上疏を退けて、かつ亡命者に関する詔勅を出して制止した話は、前回までの1898年(明治31年)12月27日付『発第88号』で見たわけですが、その後も高宗の怒りは収まらなかった、と。
んで、そのために中枢院の議官って総辞職になるんじゃね?噂されるようになるんですな。
そして、これに関して議政府と中枢院の間で数回交渉が行われ、中枢院議長の進退伺いとなった、と。

次のあたり、高宗実録なんかでは12月23日の記事になってまして、ちょっと調べたら官報での公布が1898年(明治31年)12月27日付けで、その中身は12月23日付になっております。
ってことで、まず1898年(明治31年)12月23日に、当時議長代理だった李時宇が1ヶ月の罰俸となり、動議者崔廷徳と政府に通牒した尹始炳が、中枢院議官を免官になります。

次は、1899年(明治32年)1月5日付けの官報で、1月3日に申海永・魚瑢善・卞河璡・李承晩・洪在箕の5名が免官。
最初は反対したけど、政府への通牒に賛成した劉猛・洪正厚・鄭恒謨が罰俸という処分になるわけですね。

ってことで、勿論李承晩の裁判経緯とか、何か別途史料があるのでしょうが、現在の処まで分かっているのは、この時点では李承晩も中枢院の議官を免官になったという事だけなんですよねぇ。( ´H`)y-~~

さて、実は李承晩、これしか出てこないんですが、一応続きも見ていきましょう。(笑)

民会解散に関する詔勅

民会跳梁殆んど国綱を紊乱する迄に至りたるを憂懼し、旧臘厳重なる詔勅を公同会に下し、以て其解散を飭令し、其解散後各自の安心を得せしめたれたる件は、客年12月27日附発第87号を以て具報に及置たる処、旧臘28日に於て再び前同様の詔勅を下し、民会をして更に帰向する処を説諭せしめられたり。
其勅語に曰く、

信は五徳の枢紐なり。
故を以て人信なければ則ち立たず。
国信なければ則ち治らず。
曩に朕既に心腹を開示し、民衆に暁諭す。
而猶其或は未だ解せざるあるを恐れ、又此に誕告す。
夫れ人民一二孤独の地にあっては分を守り、志を定めざるはなし。
其千百群をなすに及んでは、自然の浮気■生中に生ずるあり。
始は則ち敢てせざる所の言を発し、終は敢てせざる所の言を行ふは、前日の所謂民会なるもの亦然りとす。
其始や忠君愛国を以て宗旨となし、其終や言を発し事を行ふ、畏忌する所なし。
其散するに及んでや、捕縛是れ憂とし、隠避是事とし、殊に知らず雷霆の到る処衆寡の分つなきを。
苟も赦免を聚会の日に欲して、而言を解散の後に食む。
則ち国家民を待つの道ならんや。
継て今日より疑懼を洞釈し、迷ふて返るを知らず。
什伍を隊となし前習を踵くを思はば、是れ乃ち自ら罪戻を速くものなり。
王章は至厳なり。
再び容貸し難し。
其れ内部をして警務庁漢城府に申飭し、民人等の処に洞諭し、咸を知悉せしむ。
万民共同会がのさばり、韓国の規律を紊乱する迄に至った事を心配し、12月に厳重な詔勅を万民共同会に下し、解散を命令し、その解散後に各自を安心させるようにした件は、1898年(明治31年)12月27日付けの発第87号で報告したとおり、と。
まず、この辺の事情は9月3日のエントリーでもやりました。
万民共同会員の身上の安全に担保を与えた話の辺りですね。

ただ、1898年(明治31年)12月27日付『発第87号』が見つからない。
『駐韓日本公使館記録』には載ってるんだけどなぁ。
かなり面白い内容なんだけど、残念ながらアジ歴ではまだ公開されてないらしい。

で、以下が勅語。
信頼というのは、5つの徳の中でも重要な物であり、人に信頼が無ければ成功せず、国に信頼が無ければ国を治める事が出来ない。
この前、ウリが腹を割って民衆をたしなめたけど、まだ誤解してるかもしれないからもう一回言っとくね。

大体民ってのはさ、一人や二人で寂しく居る時なら、すべてルール守って志を定めなない者は居ないんだけどさ、数百とか数千の単位になると、自然に浮わついて思慮に欠けたりするんだよね。
最初は敢えて遣りもしない事を言ってみたり、最後には敢えて遣っちゃ駄目な事をやったり、この間の民会みたいに最初は忠君愛国とか言ってたけど、最後は言動で恐れ多いとか慎むとか無くなったっしょ?

解散するように言われると、捕まるか心配して隠れて逃げ回り、厳しい処罰があちこちで、多い少ないの区別無く行われるかどうか分からない。
一回赦免するって言ったんだから、解散した後に約束破るようなことしたら、どうして国が国民を待つ(解釈出来ず)道だろうか。

今日からは疑惑を解いて、それぞれ生業に戻って落ち着きなさい。
また同じような事したら、今度は許さんよ。( ´H`)y-~~

つうか、「国信なければ則ち治らず」とか、どの口が言ってんだ、と。
( ´H`)y-~~



今日はこれまで。
次で終わり。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九) 帝国の迷走(四十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)  帝国の迷走(五十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)