今日も『駐韓日本公使館記録2』から見ていきたいと思います。
これも、前回までの『公信第405号』と同様に、在京城二等領事内田定槌から大鳥へのもので、内容的にも荻原警部の復命書になってるものです。

そんでは早速、1894年(明治27年)7月11日付『公信第21号』より。

清兵動静視察の為め、去る6日を以て水原地方へ出張致候当館荻原警部の一行は、一昨9日を以て帰館し、別紙の通り復命書を差出候。
右復命書の要領は、清兵が水原を経て入京する準備は已に一通り相整居候得共、果して入京すべきや否や、又た入京するとすれば何時頃水原を通過するものなるや判然せざるに付、更らに時日を俟って之を確むる為め、同行者の内日本人1名及韓人1名を同地に止め置き、一応帰館したる趣に御座候。
右復命書相添此段及具報候。
敬具
10月27日のエントリーで、7月4日に全州等から帰ってきてた荻原警部ですが、その2日後の7月6日にはもう水原地方へ。
ハードだなぁ・・・。(笑)

で、7月9日に帰ってきて別紙のとおり復命書を提出した。
復命書の概要は、清国兵が水原経由で京城入りする準備は、既に一通り済んでるけど、マジで京城入りするのかどうかや、もし入京するとしたら何時頃に水原を通過するのかハッキリしなかったため、更に何日か待って確認するため、同行者のうち日本人1名と朝鮮人1名を水原地方に止めて、一応帰ってきたってことらしい、と。

で、続いてその別紙復命書について。

清兵動静視察として水源地方に出張を命ぜられ、7月6日京城出発。
同日水原に着したり。
同地にて探偵するに、一も確実なる事実を得ず。
依て翌7日、進で振威縣に至り偵察をなしたり。
同縣庁には、薪糧米馬料等の用意はなし居るも、之れは余程以前より準備致置きたるものにして、清兵の入京は何時か確かならざる由なりしが、8日朝に至り、清人1名韓人旗手2人と共に振威に来りたるに、同縣官は其旅舎を訪問したり。
其際の談話によれば、本月6日聶大人全州に赴きたり。
多分今明日中には是非天安迄帰来るべし。
左すれば、直ちに兵を率ひ入京の都合なれば、飮食物の用意をなすべしと縣官に頼みたりとの事を探聞せり。
途中、清兵は成歡駅にある如き風説ありしに付同行の韓人を同地に遣したるに、同駅には清人1名のみにて、総て公州に集りたる兵は天安迄帰り来りしものなりと復命せり。
其他旅人等より聞取る処によるも、天安に屯し居るは事実にして、其員数は2,000名以内ならんとの事なり。
右の如くなれば、到底4、5日を過ぎざれば入京の事実も確かならざるものと察し、8日振威を発し水源に1泊せり。
同地にても、余程以前より村々に命じ飮食物等の用意は調ひ居るとの事なり。
9日水源を発し、途中果川にても偵察をなせしに、矢張水源振威等と同じく夫々用意は致し居るも、未だ日時は確定し居らざる趣なり。
帰京の際、同行の日本人1名、朝鮮人1名は水源に止め置き、清兵入京に付確実なる事実を得ば、急報すべき旨を命じ置きたり。
清国兵の動向調査を命じられ、7月6日に京城出発し、その日のうちに水原到着。
水原で探ってみたけど、一つも確実な情報無し。

ってことで、翌7日には振威縣まで行って偵察。
振威縣には薪や食糧や馬の餌の用意はしてるけど、これはかなり前から準備してあったもので、清兵の京城入りがいつになるかは確かじゃないって話だったけど、7月8日の朝になって清国人1名と朝鮮人2名が一緒に振威に来たわけです。

で、振威縣官は彼らの宿泊場所を訪問。
その時の話では、7月6日に聶が全州に向かった。
多分、今日か明日には天安まで帰ってくるだろう。
そうなれば、直ちに兵を率いて京城入りするんで、飲食物の用意しといてよ、と縣官に頼んだという事を聞いた。

途中、清兵が成歡駅に居るっつう噂を聞いたので、同行してた朝鮮人を成歡駅に派遣すると、成歡駅には清国人が1人いるだけで、公州に集まった兵は天安まで帰ってったとの報告。
他に、旅人なんかから聞いた話からしても、清国軍は天安に駐屯しているのは事実であり、その数は2,000名以内だろうという事だ、と。

ってことなんで、4~5日くらい経たないと入京の事実も確定しないだろうと思い、7月8日に振威縣を出発して水原1泊。
水原でも、かなり前から村々に命じて飲食物等の用意は終わってるって事だ、と。

で、7月9日水原出発。
途中、果川でも偵察したけど、やっぱり水原や振威等と同様にそれぞれ用意はしてるけど、まだ日時は確定していない様子だ、と。

ってことで、帰ってくる時に日本人1名と朝鮮人1名は水原に残し、清国兵の入京について確実な事実を得たら急報するように命じておいた。

清国軍が水原経由で入京って話は、5月30日のエントリーの混成旅団報告あたりからずっと言われてる事ですね、
この辺、威海衛あたりの出兵軍備と同様で、準備は整ってるけど実際の行動はまだ、みたいな。
まぁ、実際に行動したら、イコール戦争の火種なわけですが。

さて。
次からはアジ歴の史料から、英文史料を見ていきたいと思います。
まずは、『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』から。
49画像目左側が英文、49画像目右側から50画像目が訳文になっている、大鳥から陸奥への1894年(明治27年)7月11日付『電受第401号』より。

Mutsu,
Tokio

(22) Under my strong pressure Corean Government have been compelled to accept my draft for administrative reform and three committees have been appointed.
I have met them 七月十日 and presented my detailed draft, but I believe the conference with those committees will not lead to effectual reform because Corean Government really are not disposed for any reform, and because Chinese party is gaining greater power in the court.

Otori


電信訳文

本使より厳しく迫りたる所あるが為め、朝鮮政府は無拠本使より提出したる国政改善案を受納し、委員3名を任命したり。
本使は、昨10日該委員と会し、該案の明細書を提出せり。
然れども、本使に於ては該委員との会議よりして有効の改善を遂ぐるに至らざるべしと信ず。
何となれば、朝鮮政府に於ては実際何等改善を為さんと欲する意なく、且つ支那党が宮中に於て益々勢力を加ふるが故なり。
大鳥が厳しく迫ったので、朝鮮政府はやむを得ず大鳥が提出した国政改善案を受け取り、3名の委員を任命した。

で、大鳥は7月10日に3名の委員と会い、国政改善案の明細書を提出。
この明細書ってのは、10月6日のエントリー10月8日のエントリーでやった、1894年(明治27年)7月9日付『機密第121号 本70号』の別紙丙号の事でしょうね。

だけど、大鳥は3名の委員との会議によって、有効な改革を遂げる事は出来ないと信じている。
なぜなら、朝鮮政府では実際何も改善をしようという意欲は無く、しかも支那党が宮中で益々勢力を増してるからだ、と。

能力的な問題もあるよね、ってツッコんじゃ駄目?(笑)


ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一) 日清戦争開戦まで(百一)
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日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三) 日清戦争開戦まで(百三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(五十四) 日清戦争開戦まで(百四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(五十五) 日清戦争開戦まで(百五)
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日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(六十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(六十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(七十)
日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
日清戦争開戦まで(二十三) 日清戦争開戦まで(七十三)
日清戦争開戦まで(二十四) 日清戦争開戦まで(七十四)
日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
日清戦争開戦まで(二十七) 日清戦争開戦まで(七十七)
日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(八十二)
日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
日清戦争開戦まで(三十六) 日清戦争開戦まで(八十六)
日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
日清戦争開戦まで(三十八) 日清戦争開戦まで(八十八)
日清戦争開戦まで(三十九) 日清戦争開戦まで(八十九)
日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



回顧録のせいで、途中でぶった切られちゃいましたが、10月27日のエントリー10月29日のエントリーでやった、荻原警部の復命書の続きを見ていきたいと思います。

前回までで、結局全州と金溝以外はそんなに被害が無いってとこまで分かりました。
まぁ、10月27日のエントリーで内田領事が言ってたとおりですな。
ってことで、早速続きを。

以上の経過地、即ち全州・泰仁・古阜・扶安・金堤・金溝の地は、民擾に重なる関係を有する地にして、多少紛擾の存するあらんと考ひ詳細に調査したるも、今日に至りては何等の認むべきなく、一旦東徒に加はりたる輩も各其郷に帰り、農事に従事し、官府亦追跡せざる事なれば、先づ静定に帰したるには相違なく、只残党各地に出没するが如く風説あるのみ。
ってことで、全州・泰仁・古阜・扶安・金堤・金溝ってのは東学党の乱の主な舞台なわけで、多少紛擾が残ってるんじゃないかと思って詳細に調査したけど、現在では何も見受けられず、一度は東学党の乱に加わった者も故郷に帰って農業して、役所とかもその追跡をしないため、平穏になったのには違いなく、ただ残党が各地に出没するという噂があるだけ、と。

つうか結局、役人の不正→騒擾→役人交代→騒擾治まる→騒擾起こしたヤツ不問っていうサイクルを繰り返してるんだよね。
不正への対処ってのは役人の交代だけ。
騒擾起こしても不問。
ガス抜きが行われてるだけで、進歩はしないという。
現代韓国で言うと「ろうそくデモ」みたいなもん?(笑)

察する処、初め東徒に入りたるものの中、正業なきの輩は敗走後と雖ども他に生活の途なければ、矢張各処に在りて盜賊其他不正の業為を以てし、東学党と自称し横行。
旅行者又は良民を害するあらんかと考へらるるも、東徒が再発に至らさるべしとの点を挙ぐれば、巡回地方各処農事には一も故障なく、農民は総て豊年を祝し居ること。
已に兵器の使用すべきもの乏しく、比較上官兵は利器を有し居りしを覚りたる事。
東学党は、夭術を以てし銃丸も傷くる能ずとの感は、全州の一戦其効なく、大に元気を損じたること。
地方官吏中、出来事に懲り将来互に戒慎すること。
是等の事実は、彼等の再発すまじと推測し得べき点にして、今後地方官が自己の損失を回復せんと私慾を逞するに至らば、或は災の起らんも計り難しと雖も、彼等の胸中も亦重大の心算あるにあらず、到底一部の地方官を苦しむるに止まるべきのみ。
推察するに、東学党の乱参加者のうち、まともな職にも就いてない連中は、敗走後でも他に生活する方法が無いので、やっぱりあちこちで盗賊等の不正な行為をして、東学党と自称して横行しており、旅行者や一般ピープルに害を加える事もあるんじゃないかと思う。

ただ、巡廻した地方の農業には少しも差し障りがなく、農民はみんな豊年を祝している事。
すでに武器で使用するものが乏しく、比較の上では官軍はそれに勝る武器を持っている事を悟った事。
東学党は妖術を使い、鉄砲でも傷つけられないっていうイメージは、全州の一戦では効果がなかったので、非常に元気がなくなった事。
地方官吏の中で、東学党の乱に懲りて将来互いに戒慎する事。

こういった事実は、東学党の乱は再発しないだろうって推測できる点であり、今後地方官が自分の損失を回復しようとして私利私欲を追うようになれば、また災いが起きるかも知れないけど、彼らの胸中にもまた重大な心づもりがあるわけじゃなく、つまるところ一部の地方官を苦しめる事ができるくらいだろう、と。

んじゃ、続き。

別紙は監司の暁諭文にて、金堤に於て得たるものなり。
右の如く必要地の状況を視察し、帰途公州に至りたるに、清兵2,000名程聶之に将として同地にあり。
依て直ちに電報せんと考へ、高嶋留学生電報局に至る途中彼等の暴行に遭ひ、到底発電するを得ず。
又、韓人に托し電報せんとすれば、漢文を用ゆべしとの事にて、暗号を使用する能はず。
且、朝鮮電信局は清人の専有に帰し、遂に我々の使用し得べからざるに立至りたりと察し、其儘に打過ぎたり。
別紙は監司の暁諭文で、金堤で得たもの。
この別紙については、この後すぐ。

で、各地の状況を視察して、帰り道に公州に来たら、清兵2,000名程度が聶を将軍として居た。
ってことで、すぐに電報を送ろうと思って高嶋留学生を電報局に向かわせる途中、清国兵の暴行にあって発電できず。
で、韓国人に託して電報しようとすれば、「漢文使うアル!( `八´)」と言われて暗号電文を使えず。

しかも朝鮮電信局は清国人の専有状態になっており、結局荻原等が使用できないだろうってことで、そのままに帰ってきた、と。

清国人がこういう事すると、日本に電信線引く言い分が立っちゃうよなぁ・・・。(笑)
んじゃ、続いて別紙の暁諭文等について見てみましょう。

甘結 金堤
雖昨日梗化若今日帰化則是赤子也自完解散意誦各帰安業近見各邑所報則一様惹擾邑村釈軽云故成出暁諭文以送自本邑招致各店幕各洞里解事人等各給此暁諭文一通店幕則掲付壁上洞里則逐戸暁諭使居者行者無有不聞不知之弊宣当者
甲午五月十九日
都巡使


曉諭文

爾等之自完散去也意謂釈当帰農各復旧業矣今聞幾処余党猶復不釈兵器所在屯結云此何故也
綸旨屢下
徳意懇惻可以孚豚魚感木石到界之日飜閲各邑使之揭付坊曲暁諭爾等尚或未之見乎見之而猶復如此則真豚魚木石之不若尚未及見則是道臣不能宣布我
聖上若保之至意致使爾等終有疑懼之情也思之及此若恫右已茲遣軍官李容仁更慕真心実情爾等明聴此言母相将疑母相懐劫各帰郷里此爾田宅復爲平民則有全生安業之楽免陥則抵辟之患豈非大事乎爾等立
列聖朝五百年化育中物耳既具彝性寧有終是執迷冥頑不化之理乎爰将後録幾條与爾等約使豈誑爾若誑爾則昨徒陥赤子於死地寔孤負我
聖上委界之重爾等一々知悉尚或無疑
一.弊政之爲害於民者已有所面承
聖教者一切矯華固不待爾等之言而小者自営革罷大者方啓聞請革事
一.朝廷既許爾帰化営門亦然則爾等還帰之日即平民而已若隣里以旧怨指目若官吏以前事侵索則非徒爾等蹤跡之■■安有朝廷許爾之本意乎営門当另飭痛禁期使爾等安堵乃已而爾等所居面里各置執綱如有爾等冤鬱之可言者該執綱具由訴営以待公決事
一.爾等兵器是勢窮自衛之計也宜即消詳開録各約於所在郡縣事
一.兵器還約之外凡係財穀等件雖有欲推之民訴今日以前付之之乎赦前以永々勿論之意自営門茲発関各邑事
一.爾等既失農又蕩産分離帰家無以資治今年戸役与各項公納当一々蠲除事
一.使爾等帰化之日使之安業楽生責在於使諸般商務次第施措而今不可一々枚挙事
前段の部分を簡単に言えば、東学党の乱後は各々郷里に帰って正業に就くと思ってたのに、最近各邑の報告を見ればまだ騒擾起こしてるようなんで、暁諭文送るから掲示しろ、と。

んで、後段の暁諭文。
君らの解散後、てっきり武装を解き、郷里に帰って農業にすると思ってたら、まだ残党が武器をおかずにあちこちに駐屯してるって言うけど、これってどうよ?
もしかして綸旨見てないのかな?かな?

今、軍官の李容仁を派遣したので、君ら良く考えて、それぞれ郷里に帰って欲しい。
いくつかの条文を君らと約束するし、嘘つかないから信じてよ、と。

で、その条文。
一つ目は、弊政は改革することにした。

二つ目は、帰化した後は平民に戻るんで、隣のヤツや役人が東学党の乱を根拠にいじめたりしないから安心汁。
君らの住んでる各面里に執綱を置いたんで、もし君らの中で何か言いたい事あれば、執綱が事由を書いて営に訴えて公正な審理するし、と。
・・・巷間の、執綱所が農民の自治機構とか二重権力とかって、何の話だ?(笑)

三つ目が、武器返しとけ、と。

四つ目が、武器返却の誓約以外に、財穀については今日以前の民訴に対しては赦してやるって趣旨を、営門から各邑に出させるから、と。

五つ目。
君らは農業も失い家財も無くして、家に帰っても生活する金が無いだろうから、今年の戸役と公納は免除してやるよ。

最後の六つ目が、君らを帰化させるのは、正業について楽な生活をさせるための責任は地方官にあり、諸般の商務は徐々に施行されてくから、一々列挙できないよ、かな?

以上で10月27日のエントリーからやってきた1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』はお終い。
思わぬ所から「執綱」の話が出てきたなぁ。(笑)


ってところで、非常に長くなりましたが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一) 日清戦争開戦まで(百一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(五十二) 日清戦争開戦まで(百二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三) 日清戦争開戦まで(百三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(五十四) 日清戦争開戦まで(百四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(五十五) 日清戦争開戦まで(百五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(五十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(六十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(六十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(六十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(六十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(六十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(六十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(六十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(六十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(六十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(六十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(七十)
日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
日清戦争開戦まで(二十三) 日清戦争開戦まで(七十三)
日清戦争開戦まで(二十四) 日清戦争開戦まで(七十四)
日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
日清戦争開戦まで(二十七) 日清戦争開戦まで(七十七)
日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(八十二)
日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
日清戦争開戦まで(三十六) 日清戦争開戦まで(八十六)
日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
日清戦争開戦まで(三十八) 日清戦争開戦まで(八十八)
日清戦争開戦まで(三十九) 日清戦争開戦まで(八十九)
日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



前回までやってた史料、全然途中なんですが、いつも通りに。(笑)
いや、一つの史料を何日もかけて書くの、飽きるってのもあるんですが。

< 2008年10月のエントリー >
やっぱ、イギリス公使の努力台無しな、清国の撤兵するまで交渉拒否が一番面白いな。
日本は交渉しなくても困らないし。(笑)

日清戦争開戦まで(九十四)

メインは、大鳥の内政改革要求提出の報告。
内政改革の交渉する窓口作りまでをやっとく筈が、栗野が持ってく文書の到着前に内政改革の綱領を提出しちゃう大鳥。


日清戦争開戦まで(九十五)

大鳥の提出した内政改革要求関係の文書についての回。
大鳥の出したのは、大枠として政治制度改革・財政整理・法整備・軍整備・教育制度確立の5点。
まぁ、国家として自立するための基本の部分。


日清戦争開戦まで(九十六)

大鳥の内政改革要求の詳細その1。
言ってる事は正論だけどね。


日清戦争開戦まで(九十七)

大鳥の内政改革要求の詳細その2。
内政改革に期限をつける大鳥。
つうか、3日以内に議定して10日以内に着手とか、6ヶ月以内に決行とか、2年以内に決行とか、そんな短期間にできるんなら、朝鮮のような惨状になって無ぇだろ、と。


日清戦争開戦まで(九十八)

アメリカの干渉と、そのお返事の巻。
朝鮮国への駐留自体は、済物浦条約による権利です。
撤兵に関しては、天津条約の「其の事定まるに及んでは」について清国と見解の相違がありますが、それについての交渉は拒否られましたが、何か?と。


日清戦争開戦まで(九十九)

仁川港中立問題、在オーストラリア代理公使からの文書、大鳥からの小村とイギリス公使間の話し合いの進捗と清国の態度照会、天津の荒川領事からのロシア公使等の動きについて等、多種にわたる史料の回ですが、そんなに重要な話では無いっすね。


日清戦争開戦まで(百)

記念すべき連載100回目。
日本が撤兵しなければ、交渉に入らないという宣言をして、イギリスの努力とか台無しにしちゃう清国。
つうか、交渉拒否ったら困るのどっちよ?と。(笑) 一方で、結構強烈な圧力かけてたロシアからは、日本の回答に満足するとの返事。
ハシゴ外すの好きだよねぇ、ロシア。(笑)


日清戦争開戦まで(百一)

大鳥から、内政改革の勧告が拒否された場合について、日本の執るべき手段についての照会があります。
この時に、一部で噂の王宮の「包囲」に関する話が、始めて出てきます。
まぁ、7月10日に出されても7月17日まで届かない文書なわけですが。


日清戦争開戦まで(百二)

イギリス公使に対して、清国の非融和的態度に対する遺憾表明。
本野から受け取った大鳥のメッセージに関する件。
京釜間電信線に関する件。
清国の態度変更に関する報告の4件。
いづれも、短いながら結構重要。


日清戦争開戦まで(百三)

清国から、撤兵しなきゃ交渉しねぇという宣言に対する回答要求が。
いや、交渉しないならしないで良いし。(笑)
後は、アメリカ政府の態度についてと、芝罘の状況について。


日清戦争開戦まで(百四)

京城の内田領事から大鳥への、荻原警部らによる東学党の乱が起きた各地方の視察復命報告について。
流石に全州は被害大きかった模様。
でも、被災者支援とかも無い模様。(笑)


日清戦争開戦まで(百五)

荻原警部の復命書の続き。
金溝以外の場所では、東学党の乱による直接的被災は、それほど無かった模様。
まぁ、金銭や物資についてどうなのかは分かりませんが。


つか、清国の「外交」って、「外交」になってないよねぇ・・・。(笑)




今日は前置き無しで。

前回は、在京城二等領事内田定槌から大鳥への1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』の別紙復命書で、荻原等が全州を訪れて色々と聞き込んだ後、泰仁に向かおうとして馬が雇えなかったってとこまででした。
今日はその続き。
んでは早速。

何にせよ致方なきに付轎夫を雇ひ、27日全州を発し同日泰仁に着し、直に府使に面し目下暴徒の状況等を尋ねたるに、当地にありては現時何等の異状あることなし。
長城及古阜には、数百群をなし強盗を働くものありと云ふことなり。
確実と認むべき説なかりし。
此地は一旦東徒の占領せし地なれば、其被害も如何あらんと考へ居りしが、民家及官庁等一も破損するものなく、且又東徒通過の際に当り彼等は何等の暴行をなしたることなし。
故に之とて損害を被らずと云ふ。
まぁ、何にしても馬が居ないんじゃ仕方ないんで、駕籠屋を雇って6月27日に全州を出発。
同27日に泰仁に到着し、すぐに府使に面会して現在の暴徒の状況を尋ねると、泰仁では現在なんの異状もない。
長城や古阜では、数百人の集団で強盗を働く者がいるっつうことだけど、確実と認められるような説は無い、と。

で、泰仁は一回東学党に占領された場所なので、その被害もどれほどになるんだろうって考えてたけど、民家や官庁など破損しているものは無く、東学党の通過の際にも彼らは何の暴行もはたらかなかった。
ってことで、これといった被害は無かったよ、と。

泰仁とかって、結構東学党の乱の連載の時に出てきたんですが、被害ほとんど無かったんですねぇ。

んじゃ、続き。

其次日は、此地より長城に赴かんとせしが、先にも全州にて泰仁地方は彼是危険ありとの話なりしに、一切其事実を認めざるが故に、又々長城に赴くも此の類ならんと察し、転じて古阜に赴きたる。
28日なりし。
此地は、今般民擾に最も関係ある地なれば、多少面白き事実を発見し得らるべしと、予て楽み居りたり。
泰仁より古阜に到るの途中は、山中にて6、7名の訝しき者に出会たると、民家の放火せられたるもの6、7軒とを見受けたるのみ。
之れは、村民が官府の脚夫共に飮食物を供したるを憤り、東徒の放火せしものなりと云ふ。
古阜に着するや民乱の原因を尋たるに、矢張前任府使が収税の酷なりしに原因し、或は府使に歎願し或は監司にも哀訴したるも一々其望を達せず、反て譴責せられたり。
然れども、此儘に打過ぎんが到底生活に途なく、互に謀議を凝せし中、茂長に於て東徒の一揆起り、東学党と称し各地を橫行し、不平の徒、若くは東学の名に惑ひ入党したるもの、又は各地に盜賊を業とするの輩附従し、遂に相互力を合すこととなり、全州迄も践入る勢に至りたりしも、目下已に其の苦情も消へ、各其業に就き何たる異状あるなしとの事なりし。
同地にて昼飯を喫し、夫より扶安に赴く途中に於て、只今東徒の残党鉄砲を持し扶安に向て行きたりとの話を聞き、轎夫馬夫等の躊躇するを叱して急ぎ追跡し、彼等に出会ひ詳細の話を聞取らんとせしに、遂に其踪跡を得ず空しく扶安に着したり。
同地にも一時は彼徒の入込たることあり、村民は多少其の害を被り或は入党したる事あるも、之迚て重々しき事にもあらずと云ふ。
全州にて敗北したる輩も、当時帰村各其の業に就き居るものあれども、総て遠隔地に在りとの事にて直接面談する事を得ざりし。
同地にて聞けば、全州陥るや扶安の橫道を通過し、何れにか逃げ行きたるもの数百名。
之れは多分淳昌に行き、当時其地に屯集すと云ふ説なりと。
同地に1泊。
翌6月28日には、泰仁から長城に行こうとしたけど、この前も全州で泰仁地方は色々危険だって聞いてたのに、一切その事実が無いので、長城に行くのも似たような結果になりそうだと察して、古阜に行く事に決定。

勿論、古阜ってのは今回の東学党の乱の起点地であり、多少面白い事実を発見できるんじゃないかと、予め楽しみにしてた、と。
んー、どういう「事実」だと「面白い」とか「楽しい」なんだろう?
つうか、お前は俺かよ。(笑)

泰仁から古阜に向かう途中、山中で6~7人の怪しい者に出会ったのと、放火された民家6~7軒を見ただけ。
この民家は、村民が官庁の運搬人等に飲食物を供した事を憤り、東学党が放火したものだという、と。

で、古阜に着いて直ぐ民乱の原因を尋ねると、やっぱり前任の府使の収税が酷い事に起因し、府使に歎願したり監司にも哀訴しても、その望みを達せられないばかりか、返って譴責された、と。
つうか、府使じゃなくて郡守の趙秉甲じゃないの???

兎も角、譴責されたっつっても、このまんま過ぎてけば到底生きていく方法も無く、お互いに謀議を凝らしている中で、茂長で東学党の一揆が起こり、東学党と名乗って各地を横行し、不平の徒や、東学の名前に惑わされて入った者や、各地の盗賊なんかが付従して、遂にお互いに力を合わせることになって、全州まで攻め入るような勢力となったけど、現在は既にその苦情も消え、各自がそれぞれの仕事に戻って異状なしって事だった、と。

古阜で昼飯喰った後、扶安に向かう途中で、東学党の残党が鉄砲を持って扶安に向かったという話を聞き、駕籠屋や馬夫がビビリ入ってんのを叱咤して、急いで追跡し、彼らと会って詳しい話を聞きたいと思ってたんだけど、最後までその痕跡を見つけられず、空しく扶安に着いた。

扶安にも一時は東学党の者が入り込んだ事があり、村民は多少その被害を受けたり、逆に東学党に入っちゃったりしたヤツもいるけど、そんな主たる動きじゃないという。

全州で敗北した連中も、当時村に帰ってきて仕事してる者もいるけど、総て遠隔地にいるって事で直接面談は出来なかった。
全州が陥落するや、扶安の横道を通過してどこかに逃げていった者が数百名おり、これらは多分淳昌に行き、当時そこに集結するという話だった、と。

ってことで、扶安に一泊。

29日、扶安より金堤に至りたりしが、同地にては格別東徒に入りたるものなく、最も静穏に打過ぎたりとのことにて、東徒全州より敗走の際は此地を経過せしと云ふ。
民家に至り飮食物を供給せしめ、扶安地方に向て出発したり。
其数凡そ6、700名ならんとの事なりし。
他に必要の事実を得ざる故、直ちに金溝に赴きたり。
金溝府使は不在中。
但、吏員一人も居らざりしに付き、村民に就き被害の状況を問ふに、初め各府縣に於ては東徒に対する厳ならず、或は優待の向もありし様子なりしが、金溝府使は部民中より壮丁を集め抗拒するの準備をなしたり。
然るに、東徒の勢遂に防ぎ難く、乱入せらるるに至り。
官庁も破られ、或は焼かれ、村中悉く逃避するに至りたり。
為に、農事等も一切手に付かず困難一方ならずとて、何れも菜色あらざるはなし。
夫より■■■■に宿泊す。
6月29日に扶安から金堤に到着したけど、金堤では特に東学党が入り込んだ様子もなく、最も静穏に通り過ぎた場所、と。
全州から敗走した際には、約6~700名が金堤を通過し、民家に来て飲食物を出させ、扶安地方に向て出発したらしい。

ってことで、特に他に必要な事も無いって事で、荻原一行はそのまま金溝へ。

金溝の府使は不在。
官吏も一人もいない。
で、村民に被害状況を尋ねると、最初は各府県では東学党に対して厳しくなかったり、あるいは優待する気配もあったんだけど、金溝府使は抗戦を決意。
部民の中から成年男子を集めた、と。

ところが、東学党の勢いが強すぎて乱入され、官庁も壊されたり焼かれたりで、村中が非難する有様に。
そのため、農業も手につかず非常に困ってるってことで、みんな顔色が青い状態、と。

訓練されてたり、武器が揃ってればまた違ったかも知れないけどねぇ。
単なる民兵じゃ・・・。(笑)


ってことで、まだ続くんですが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)     日清戦争開戦まで(五十一) 日清戦争開戦まで(百一)
日清戦争開戦まで(二)     日清戦争開戦まで(五十二) 日清戦争開戦まで(百二)
日清戦争開戦まで(三)     日清戦争開戦まで(五十三) 日清戦争開戦まで(百三)
日清戦争開戦まで(四)     日清戦争開戦まで(五十四) 日清戦争開戦まで(百四)
日清戦争開戦まで(五)     日清戦争開戦まで(五十五)
日清戦争開戦まで(六)     日清戦争開戦まで(五十六)
日清戦争開戦まで(七)     日清戦争開戦まで(五十七)
日清戦争開戦まで(八)     日清戦争開戦まで(五十八)
日清戦争開戦まで(九)     日清戦争開戦まで(五十九)
日清戦争開戦まで(十)     日清戦争開戦まで(六十)
日清戦争開戦まで(十一)   日清戦争開戦まで(六十一)
日清戦争開戦まで(十二)   日清戦争開戦まで(六十二)
日清戦争開戦まで(十三)   日清戦争開戦まで(六十三)
日清戦争開戦まで(十四)   日清戦争開戦まで(六十四)
日清戦争開戦まで(十五)   日清戦争開戦まで(六十五)
日清戦争開戦まで(十六)   日清戦争開戦まで(六十六)
日清戦争開戦まで(十七)   日清戦争開戦まで(六十七)
日清戦争開戦まで(十八)   日清戦争開戦まで(六十八)
日清戦争開戦まで(十九)   日清戦争開戦まで(六十九)
日清戦争開戦まで(二十)   日清戦争開戦まで(七十)
日清戦争開戦まで(二十一) 日清戦争開戦まで(七十一)
日清戦争開戦まで(二十二) 日清戦争開戦まで(七十二)
日清戦争開戦まで(二十三) 日清戦争開戦まで(七十三)
日清戦争開戦まで(二十四) 日清戦争開戦まで(七十四)
日清戦争開戦まで(二十五) 日清戦争開戦まで(七十五)
日清戦争開戦まで(二十六) 日清戦争開戦まで(七十六)
日清戦争開戦まで(二十七) 日清戦争開戦まで(七十七)
日清戦争開戦まで(二十八) 日清戦争開戦まで(七十八)
日清戦争開戦まで(二十九) 日清戦争開戦まで(七十九)
日清戦争開戦まで(三十)   日清戦争開戦まで(八十)
日清戦争開戦まで(三十一) 日清戦争開戦まで(八十一)
日清戦争開戦まで(三十二) 日清戦争開戦まで(八十二)
日清戦争開戦まで(三十三) 日清戦争開戦まで(八十三)
日清戦争開戦まで(三十四) 日清戦争開戦まで(八十四)
日清戦争開戦まで(三十五) 日清戦争開戦まで(八十五)
日清戦争開戦まで(三十六) 日清戦争開戦まで(八十六)
日清戦争開戦まで(三十七) 日清戦争開戦まで(八十七)
日清戦争開戦まで(三十八) 日清戦争開戦まで(八十八)
日清戦争開戦まで(三十九) 日清戦争開戦まで(八十九)
日清戦争開戦まで(四十)   日清戦争開戦まで(九十)
日清戦争開戦まで(四十一) 日清戦争開戦まで(九十一)
日清戦争開戦まで(四十二) 日清戦争開戦まで(九十二)
日清戦争開戦まで(四十三) 日清戦争開戦まで(九十三)
日清戦争開戦まで(四十四) 日清戦争開戦まで(九十四)
日清戦争開戦まで(四十五) 日清戦争開戦まで(九十五)
日清戦争開戦まで(四十六) 日清戦争開戦まで(九十六)
日清戦争開戦まで(四十七) 日清戦争開戦まで(九十七)
日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



さて。
前回の予告どおり、今日からは7月11日の史料に入って行きます。

まず最初は、『駐韓日本公使館記録2』から。
在京城二等領事内田定槌から大鳥への、1894年(明治27年)7月11日付『公信第405号』より。

曩きに当国南部民乱地方状況視察の為め、当館より派遣致候荻原警部の一行は、本月4日を以て当地へ帰着し、別紙の通り警部より復命書を差出候。
其要領は、同警部一行の巡廻たる地方は、今回民乱の起りたる重なる場所、即ち全州、泰仁、古阜、扶安、金堤、金溝にして、其内全州及び金溝の外は乱民の為め格別惨状に陥りたる模様無之、今日に在ては人民各其堵に安じ、再び地方官の虐政に遇ふにあらざれば俄に暴発するの患無之趣に御座候。
尚、詳細は別紙御一覧の上御承知有之度、此段申進候。
敬具
以前、朝鮮南部の民乱の起きた地方の状況視察のため、京城領事館から派遣していた荻原警部の一行が、7月4日に京城に帰ってきて別紙のとおり復命書を提出した。

えーっと。
2月20日のエントリーの1894年(明治27年)6月20日付『第53号』で、荻原他1名に対する旅行券と公文の要求があり、朝鮮側からオッケーが出てましたが、その関係ですね。

視察箇所は、東学党の乱の起きた主要地方である全州、泰仁、古阜、扶安、金堤、金溝であり、そのうちの全州と金溝を除いては、乱民のせいで特別惨状に陥った様子もなく、現在では人民も落ち着いて、再び地方官の虐政にあわなければ突然暴発するような事も無い雰囲気だ、と。
じゃあ、全州と金溝はどうなんだろう?

ってことで、別紙の方を見ていきたいと思います。
1894年(明治27年)7月9日付の荻原秀次郎の復命書より。
非常に長いので、分割しながら見ていきます。

別紙

民乱地方視察復命書

全羅道全州地方民擾地実況視察として、6月21日京城出発。
同地方に赴き、全州には6月25日を以て着するに至りたり。
此際に在りては、一旦東徒の有に帰したる全州城も、官兵恢復後20有余日を経過し、招討使も亦京に帰りたるの後にてありし。
発程後、行旅者の話にて往々全州の惨状を耳にし、其現場を視察するに当り尚一層の感を起したり。
同州は、田舎には稀なる繁華の地にて、其戸数7、8千位あるべしと思はるべき土地なり。
特に、財産家の多数なる此地方に有名なる場処なりとの事なりしが、今や全く其趣を異にし、西大門外等兵燹に罹り、財産は烏有に帰し、妻子は離散し、各自焼跡に悄々佇立結然として後図を計画しつつあるの有様は、実に気の毒と云ふのほかなきなり。
聞く招討使は官兵を率ひ全州にあり、可成丈非常手段を用ひざるの決意ありし如く、即ち招討の事実を行はんとしたるには相違なかりしと云ふ事なり。
然るに、一時猖獗を極めたる東徒、若くは平素地方官の苛政に苦み居りし不平党、何時かは官人を苦めんと思ひ居るときなりしかば、素手にても握殺さんとの勢を以て遂に官と一戦勝負を決せんとしたる事なり。
已に中々官兵も万勝を期し難く、巨砲を撃ち、敢て良民の財産を害損するの止むを得ざる策に出でたりと云ふ(其損害の状況等は、已に内報巡査復命筆記にあれば略す)。
当時にありて或は万貫文の支出、3里以内の伐木を自由にし、以て救助の方法を行ひ居るとの説あれども、已に20余日を過ぎし時に当り、未だ罹災者が一人だも再建築等に着手し居らず。
東徒の全州に集りたるものは、或は万を以て数ふるものあれども、戦死者は実際2、300に過ぎざるべく、其他逃走せる者6、700名なりとの事なるは、都合1,000名位なるべしと思はる。
全州にて監司金鶴鎮に面し善後策等を尋ねたるに、同氏は目下之とて救助するの途なく、只各自其業に安んぜよとの諭達し居るのみと最も冷酷に説き去り、敢て部民を保護すべき点には掛念なきものの如し。
26日は全州に滞在。
夫より泰仁に赴かんとして行先地の模様を尋たるに、風説によれば、近時東徒の余類各地に屯集し強盗等を働き居り、已に昨日も泰仁に於て彼等に殺害せられたるものあり。
支那人4名は之を見て急ぎ帰りたり。
可成は危険を避けられよとの注意を受けたり。
依て我々は、夫等の実際を目撃するこそ望む処なれば、是非に明日は出発すべしとて立帰り、翌朝出発の用意に取掛りたるも、乗馬は雇入るる事能はず。
之れは、我々と同時に20名の清兵全州に入りたる為に、総ての飼馬を専領せし為ならんと考へたり。
先ほど、2月20日のエントリーのエントリーで6月20日にオッケー出てた話はしましたが、その出発は翌21日だったようで。
ってことで、東学党の乱の実地視察として6月21日に京城出発。
全州には6月25日に到着、と。

1度は東学党に占拠された全州城も、官側が奪還してから20日以上経過し、招討使も京城に帰って行った後。
出発後は、旅行者からしばしば全州の惨状を聞き、その現場を視察するにあたって、・・・「尚一層の感」ってのは緊張が高まってたって事かな?

んで、全州は田舎には珍しく賑わった場所で、戸数は7~8,000くらいあると思われる場所。
特に、金持ちが多いって有名な場所って事だったけど、現在は全くその趣を変え、西大門等は兵火に焼かれ、財産は何も無くなり、妻子は離散し、それぞれ焼け跡でしょんぼりと佇んで今後を考えているのは、実に気の毒という他ない、と。

招討使が軍を率いて全州にいたけど、一昨年の12月12日のエントリーの1894年(明治27年)5月16日付『機密第52号』でもあったように、武力行使ではなく慰撫して帰順させるという決意があったようで、「招討」という文字通りの努力をしようとした事には違いない。

でも、一時猛威を振るった東学党や、普段地方官の苛政に苦しんでいる不平党が、いつかは官吏を苦しめてやろうと思っていた時であり、素手でも握り殺してやるぐらいの勢いだったんで、遂には官軍と一戦して勝負を決しようとしたらしい。
既に官軍も全勝するのが難しく、大砲を撃って、あえて一般市民の財産に損害を与えるのもやむを得ない作戦に出たという、と。

で、当時は万貫文の支出をするとか、3里以内の木材伐採を自由にして、罹災者救援を行うという噂もあったけど、既に20日以上経過しているのに、未だに罹災者は一人も再建等には着手していない。
んー、結局噂だけで援助は行われなかったのかな?
それとも、援助はあったけど罹災者の気力が無かったのかな?
いや、多分援助も気力も無かったっつうパターンだと思うけどさ。(笑)

東学党で全州に集まったのは、1万以上という者もいるけど、戦死者は2~300に過ぎないようで、その他に逃走した者が6~700人という事なんで、大体1,000人くらいの規模じゃね?と。
つうか、それが事実なら、1,000人くらいの民衆に城占拠されたりすんのか・・・。

全州の監司である金鶴鎮と面会して善後策等を尋ねると、金鶴鎮は現在はこれといって助ける方法もなく、ただ各自仕事汁!と諭達しただけで、民衆を保護するような考えは無いかのようだった。
うむ。
やはり。(笑)

6月26日はそのまま全州滞在。
そこから、泰仁に行こうと思って状況を尋ねると、噂では最近東学党の残党が集まって強盗等をしており、昨日も泰仁で殺された者がおり、支那人4名もそれを見て急いで帰ったんで、なるべくなら危険を避けた方良くね?と忠告を受けるわけです。

忠告を受けた荻原等は、そういうのが見たいんだよ、そういうのが、と。
いや、強盗に遭いたい訳じゃなくで、治安が未だに回復してないってのを知らせたかっただけだとは思うんですが。(笑)

そういうことで、是非明日は出発しようってことで、帰って翌朝の出発準備にかかったんだけど、馬は雇い入れる事ができなかった。
これは、荻原等と同時に20名の清国兵が全州入りしたため、総ての飼い馬を占有したせいだろうと思う、と。

昨年の2月18日のエントリーとかで、牛とか馬とか大豆とか人夫とか徴発されてましたね。
荻原の予想が正しかった場合、清国兵、使用料払ったのかなぁ・・・。


ってことで、途中ですが今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



私用で忙しかったので、1回飛ばしちゃいました。
あまり居ないと思う、更新を楽しみにしてくれている方、すいません。(笑)

さて、今日も英文史料から。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の56画像目左側。
前回同様、小村から陸奥への電信になります。
1894年(明治27年)7月10日発『電受第405号』より。

Mutsu
Tokio

At the conclusion of interview 七月九日 王大臣 authorized me to communicate to my Government their declaration concerning withdrawal of troops as the view of their own Government and asked me to acquaint them with reply of my Government without any delay.

Komura
7月9日の会談の結果、王大臣は彼ら自身の政府の見解として、撤兵に関する彼らの宣言を日本政府に伝える権限を私に与え、即刻日本の回答を彼らに伝えるよう求めた、と。

おお。
凄ぇ一方的。(笑)
俺だったらこれで交渉決裂な感じですなぁ。

続いてはアメリカの情報。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/3 明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日(レファレンスコード:B03050308300)』より。
9画像目。
在アメリカ公使の建野郷三から陸奥への、1894年(明治27年)7月10日発『電受第410号』。

Mutsu,
Tokio

On every occasion possible, I have explained to Secretary of State Japan's attitude towards Corea as stated in your telegrams, but he has got an impression from other sources that Japan’s actions directly interfere with Corean independence.
This was reason for telegram of 七月七日 sent to 在日本米公使.
Secretary of State said that arbitration would be best method for the settlement of differences between Japan and China.
I did not admit the state of affairs called for arbitration but I believe the President would consent to arbitrate if requested.

在米公使
この電文、何故か『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の29画像目に同じものがありまして。
日付が7月11日発なんですが、30画像目の訳文を見るに10日発となっているので、恐らく同一電文でしょう。
ってことで、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の30画像目から、訳文も起こしておくことにします。

本使は、機会ある毎に国務大臣に向ひ、朝鮮に対する日本国の意嚮は、貴電にて御垂示の如くなる旨縷陳したれども、同大臣は他の筋より聞込たることありと見へ、日本国の行為は直接に朝鮮国の独立に干渉するものなりとの感を抱き居れり。
之れ、7月7日附を以て同大臣より在日本米公使へ電信を送りたる所以なり。
同大臣は、日清の紛議を結了するに、之れを仲裁裁判に付すること最も得策ならんと云はれたるなり。
然れども本使は、現今の状況未だ仲裁を要するものと認めざる旨申入れ置きたれども、大統領に於ては請求次第仲裁の労を執ることを承諾さるるならんと信ず。
建野は機会があるごとにアメリカ国務大臣に向かって、朝鮮に対する日本の意向は陸奥の言ってたような事だって言ってるんだけど、国務大臣は他の筋からも何か聞いてるらしくて、日本の行為が朝鮮の独立に干渉するものだという感想を抱いている、と。
「日本の行為」って、どっからどこまでの部分なんだろ?

で、若干日付が違うようですが、恐らくそれが10月10日のエントリーでやった在日本アメリカ公使のダンによる申し入れの関係で、グレシアムからダンに電信が送られた理由だ、と。

アメリカ国務大臣は、日清の紛議を終わらせるためには、仲裁裁判に付する事が最も得策だろうと言ったので、建野は今の状況はまだ仲裁は必要ではないと言っておいたけど、アメリカ大統領は請求があり次第、仲裁の労を執ることを承諾するだろうと信じる。

常設の仲裁裁判所は、この後にオランダのハーグに出来るわけですが、この頃ってどんな形で開かれてたんだろ?

さて、次は『駐韓日本公使館記録2』を見ていくことにします。
まずは、芝罘の伊集院領事から大鳥公使への1894年(明治27年)7月10日付『機密第3号』より。

爾来其向へ探偵方無怠注意致居候処、本月5日夜、威海衛より稍々可信探聞に接し、同衛には目下石炭其他軍器等最も軍備を戒厳し、前に朝鮮への派出軍艦は本月2、3両日に於て帰衛。
又、修繕中なりし致遠は本月同2日修繕を了り、水雷2隻を率ひ同衛に入口したり(当時済遠も了修帰衛之筈に有之候)。
現に碇泊中大小艦11隻は、本月7日迄に戦闘の準備可致旨命令有之候由にて用意中之趣に付、右は必用と認め翌朝早速別紙の通電報差立候も、電報は不通なりとて差回し候。
又、東京北京には同様及電報候処、翌之8日に至り済南府総局より不通の旨申来れりとて同原案返し来り候始末なり。
尤も、其後何たる模様も不相見惟待命之由に有之候。
右及御報告候也。
探り入れるのを怠らないようにしていたら、7月5日の夜に威海衛からやや信ずべき情報を受けた、と。
んで、威海衛では現在石炭や武器等の軍備を厳重にし、以前朝鮮に派遣されていた軍艦も7月2~3日中に帰って来てる。
また、修理中だった致遠も7月2日に修理を終え、水雷艇2隻を率いて威海衛入り。
済遠も修理終わったら威海衛に来る筈、と。

んで、現在停泊中の清国艦11隻が、7月7日までに戦闘準備をするように命令があり、その準備中らしいので、必要な情報だと思い8日朝に別紙のとおり電報したけど、電報は不通ってことで差し戻された。
東京と北京にも同様の電報をしておいた所、8日になって済南府総局から不通ってことで、原案を返してくる始末だ、と。
んー。
電報不通って、嘘くせぇ。(笑)

ただ、その後は出発の様子は見えず、命令待ちって事らしいよ、と。

残念ながら別紙については記載なし。


ってところで、ちょっと早めですが今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(四十八) 日清戦争開戦まで(九十八)
日清戦争開戦まで(四十九) 日清戦争開戦まで(九十九)
日清戦争開戦まで(五十)   日清戦争開戦まで(百)



今日も前置き無しで、英文史料から見ていきましょうかね。
アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』から。
54画像目左側。
陸奥から小村への、1894年(明治27年)7月10日発『電送第312号』。

Komura,
Peking.

1) Received your telegram of 七月九日.
Communicate to British Minister to China the sense of high appreciation for his exertion and tell him it is much to be regretted that the state of affairs in Corea should continue as it was on account of non conciliatory spirit of Chinese Government.

Mutsu.
貴下の7月9日付けの電信、つまり今日の冒頭でやった、1894年(明治27年)7月9日発『電受第395号』は受け取った。

在清イギリス公使の骨折りに対する大いなる感謝の意と、清国の非融和的精神のため朝鮮の状勢が継続するだろう事を、大変遺憾に思っていると伝えろ、と。
布石、布石。(笑)

続いては、『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/2 明治27年6月20日から1894〔明治27〕年7月12日(レファレンスコード:B03050308200)』の48画像目。
陸奥から大鳥への、1894年(明治27年)7月10日発『電送第313号』より。

Otori,
Seoul.

(34) Messages by Motono fully understood.
There is little hope arriving at any understanding at Peking.
Consequently do you utmost to raise reform party among Coreans to cooperate in your efforts.
Meanwhile endeavour to secure all possible material advantages such as railways, telegraphs etc.
Further instructions will follow after cabinet decision 七月十一日.

Mutsu
9月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月3日発『電受第360号』で、本野の東京着は7月8日朝って話だったわけですが、大体予想通り着いたっぽいですね。

で、その本野からのメッセージは十分理解した。
8月29日のエントリーの1894年(明治27年)7月2日発『電受第359号』で、「懸案となっている私の意見を知らせるため、本野参事官と福島中佐が派遣されるだろう。」とか言ってましたからねぇ。

北京では、何らかの合意に達する望みはほんどない。
従って、貴下の行動に協調する改革派を集めるよう、全力を尽くせ。
それまでの間、例えば鉄道や電信などの、可能な総ての実体的利益を確保すること、と。

9月29日のエントリーの1894年(明治27年)7月8日発『電送第307号』でも言われてましたね。
交渉前に確保した利益は保持される可能性が高いからって。

追加の指示は、7月11日の閣議決定後に送られるはず、かな?

続いては、ちょっと戻って46画像目。
大鳥から陸奥への1894年(明治27年)7月10日発『電受第399号』より。
訳文もついてますので、続けて見ていきます。

Mutsu
Tokio

(21) 督弁交渉通商事務 gave decided refusal to our proposal in regard to repair or the construction of 京城 釜山 telegraph line, insisting that these works belong to sovereign right, cannot allow any foreign country to do them.
It now remains to take recourse to your instruction 機密第二十五号信 dated 六月二十一日 third clause.
I will begin on favourable opportunity.

Otori


電信訳文

京城・釜山間の電線を修繕し、又は新築することに関する我提議に対し、督辨交渉通商事務は断然之を拒絶し、此等の工事、一国の主権に属し、外国をして之を為さしむること能はずと主張せり。
依て此上は、本使に於ては6月21日附機密第25号貴大臣の訓令第3項に依り之に処するの外致方なし。
本使は、好機に投じて之に着手すべし。
電信線の修繕又は新築に関する話は3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日付『機密送第25号』を始め何度か出てきたわけですが、その提議に対して、こういった工事は1国の主権に属する問題で、外国にそれを行わせることは出来ないとして、督辨交渉通商事務は拒否してきた、と。
つうか、清国は「外国」じゃないのかよ。(笑)

兎も角そういう事で、大鳥としては3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日付『機密送第25号』の第3項で対処する他無くなった、と。
第3項ってのは、朝鮮政府で電信線を修復するか、その返事を引き延ばした場合には、日本軍で電信線引いてそれを朝鮮政府に通知するって部分で良いのかな?

で、大鳥は良い機会を捕らえてそれに着手する、と。
20日くらい経ってるのに、まだこの段階か・・・。

続いては、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』の56画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)7月10日発『電受第404号』より。

Mutsu,
Tokio.

During the interview 七月九日 I was strongly impressed that 王大臣 changed their attitude since the previous interview, that they expected fear of Russian interference would induce Japanese Government to withdraw troops immediately and that they had no idea as to what they should propose after their withdrawal.
I saw British Minister twice my last telegram.
He says that 王大臣 having changed their attitude he cannot do otherwise than to wait till asked by them to discuss the question again.
I will try to ascertain cause of the change.

Komura
7月9日の会談の中で、王大臣が前回会談をして以降、態度を変えたという印象を強く受けた。
彼等は日本政府がロシアの干渉を恐れ、直ちに撤兵するを予期し、撤兵後に彼等が提案しなければならない事については、何の見解も無いようだ。

要するに、ロシアの圧力に日本が屈するだろう。
それで、この一件お終い。
と考えてるらしいってことですな。

いや、もう日本は拒否済みなんですがね。(笑)

で、小村は最後の電信以降2度イギリス公使に会った。
イギリス公使は、王大臣が彼等の態度を変えたため、彼等が再びこの問題を協議しようと要請するまで待たなければ、協議できないと言ってる、と。
イギリス公使も困ってるし。(笑)

で、小村は態度の変化の原因を突き止めてみる、と。


ってところで、今日はここまで。



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今日は前置きなしで早速。

『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/3 明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日(レファレンスコード:B03050308300)』の32画像目から見ていきます。
大鳥から陸奥への1894年(明治27年)7月10日付、7月17日接受の『機密第122号 本71』より。

朝鮮内政改革の勧告拒絶せられたる時、我が執るべき手段に付伺

朝鮮政府に向て内政改革案提出の顛末は、既に機密第121号信に詳陳致候通りに有之候処、当政府の内情を探偵するに、国王には大分改革に傾意せらるると雖も、先般来李鴻章の内意を受けたる電信天津より続達し、袁世凱又之に附和して恐嚇し居るが為め、守旧即ち事大派の気焔を一層強めたれば、彼等は我に向て外面改革を口にするも、其実行は到底見込無之候。
彼等の胸算は、一時我が鋭鋒を避け、我勧告に応ずるが如き顔色を装ふて時日を送り、其間に李鴻章及び各国公使に依頼して我駐在兵を撤退せしめんとの考案に可有之と被推察候。
就ては、我より尋常手段にて之に当るときは、必然彼等の術中に陥り可申掛念有之候に付、此際断乎たる処置に出て後害を残さざる様注意するを緊要の義と存候。
就ては、朝鮮政府に於て断然我勧告を拒絶するか、若くは遷延して可否決答を為さざるか、又は表面我勧告を容れて之を実行せざる場合に於ては、総て我勧告を拒絶したるものと見做し、本官は左記両案の内必其一を執り、直接又は間接に改革の必行を促し度と存じ候。

(甲) 朝鮮政府より陽に或は陰に拒絶を受けたる時は、我より「朝鮮政府は内政不整頓なるが為め、屡々変乱を挑発し、或は外援を招くに至り、実に我国に向て危険を与へり。我国は、政事及貿易上朝鮮との関係甚だ深きが故、自衛の為め朝鮮内政の改革を促し、変乱の根源を絶たざるべからず」と云ふ事を辞柄と為し、兵威を以て之に迫り、其必行を促すべし。
但し、兵威を以て之に迫るの手段は、我護衛兵を派して漢城の諸門を堅め、且つ王宮の諸門を守り、彼等が承服する迄手詰の談判に及ぶべし。

(乙) 朝鮮政府若し陽に或は陰に我勧告を拒絶したる時は、我は先づ公文を以て「朝鮮政府の拒絶は全く東洋の大局を顧みず、我国と相提携して共に富強を図るに意なきを表示したるものなれば、我国は遺憾ながら本国の利益を保護する手段を執らざるべからず」との決意を申送り、之と同時に左の要求を為すべし。

一.日朝条約中、「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」の主義を推拡して、従来清韓間に有せし宗属の関係を悉皆革除せしむること(但し、清韓間宗属の問題は、我より提出すべからざる旨御電訓にて承知致居り候へども、朝鮮に向て之を提出するは強て差支有之間敷と存候)。

二.最恵国条款に依りて、支那政府及人民に許与したる権利特典(就中朝鮮国内に於て朝鮮人民を裁判する権利、并電信架設等)を我に要求すること。
右2ヶ条の実行を保証する迄、我は兵を派して漢城并王宮諸門を守るべし。
但し、両国交渉事件の未決にするものは、通常談判として別に提出するを可とす。
何となれば、此際提出するものは強迫の材料に供する迄なれば、若し朝鮮政府が敢て改革を妥行するときは、必ずしも提出に及ばざるものなればなり。

已上甲乙両案とも聊か例外に在りと雖も、此際斯る例外の処断に出でざるときは、好結果を収むべき見込無之候。
尤も、其内甲案は、改革の目的を貫徹する方に取りては都合善しと雖も、余り例外に奔馳したりとの譏責を免れざるべく、乙案は我に一応の口実ありと雖も、要するに改革の目的の相齟齬するを以て、我挙動は始終相貫徹せざる嫌有之候。
乍去、是亦改革を力迫する一手段に過ぎざれば、寧ろ譏責の軽き乙案に従ふ方可然やとも被考候。
右は、目前に差迫り候事件に付、本信御落手次第何分之御電訓有之候様致度、此段至急伺出候也。
10月1日のエントリーの1894年(明治27年)7月9日付け7月17日接受の『機密第121号 本70号』等で見られるように、朝鮮に対して内政改革案が提出されたわけですが、それが拒否された時の対応についての伺い。

ってことで内政改革案を提出したけど、朝鮮政府の内情を探ると、高宗はかなり改革に傾いてるけど、この前から李鴻章の内々の意向を受けた電信が天津から続々と届き、袁世凱もそれに同調して恐喝してるので、守旧派即ち事大派が勢力を増しているので、彼らは日本に向かっては表向き改革を口にしても、その実行は到底見込みが無い、と。

国王には大分改革に傾意せらるる」。
これ、かなりくせ者。
高宗って、対日本に限らず、誰かに何か言われたら取りあえず「うん」って言うヤツだから。(笑)
押しが弱いだけなのか、主体性が無くてフラフラしてるだけなのかは知らんが。

で、守旧派・事大派の胸算用は、一時的に日本の矛先を避けるために、日本の勧告に応じるふりをしておいて、その間に李鴻章や各国の公使に依頼して日本の駐在兵を撤退させようという考えだろう、と。
まぁ、開国以来からのいつもの手。

ってことで、日本が普通の手段で対処しようとすれば、必然的に守旧派・事大派の術中にはまる事が懸念されるので、この際断固とした処置に出て、後に害が残らないように注意する事が緊要だと思う。
つうか、改革やりたくないなら勝手にしろって、放置できる場所だったら良かったのにねぇ・・・。

そんなわけで、朝鮮政府が断然日本の勧告を拒否するか、もしくは回答の引き延ばしを図るか、表面上日本の勧告を受け入れて実行しない場合、総て日本の勧告を拒否したものと見なして、以下の甲・乙いづれかの案のうち必ず一方を執り、直接的または間接的に改革を必ず実行する事を促したい、と。
割と大きなお世話。
つうか、朝鮮に夢見すぎ。(笑)

で、勧告拒否されたときに執る方策のうち、まずは甲案。

朝鮮政府によって明確にでも実質的にでも拒絶された場合、
「朝鮮政府は内政不整頓のためにしばしば変乱を起こし、あるいは外国の援兵を招くことになり、日本に向かって危険を与えた。
日本は政治や貿易上、朝鮮との関係が非常に深いことから、自衛のために朝鮮内政の改革を促し、変乱の根源を絶たなければならない。」
という口実により、武威によって朝鮮に迫り、改革を必ず実行させる。

ただし、武威で改革を迫る手段としては、日本の護衛兵を派遣して京城の諸門を固め、かつ王宮の諸門を守って、朝鮮政府が応じるまで猶予を与えず厳しく詰め寄る、と。
この辺が、王宮占拠事件につながっていく話。
まぁ、「包囲」じゃなくて「占拠」自体が計画だったなんて言ってる人も居ますが。(笑)

一方の乙案。
同じく勧告を拒絶されたら、まず公文によって、
「朝鮮政府の拒絶は、全く東洋の大局を顧みておらず、日本とお互いに提携して共に富強を図る意志が無い事を表したものなので、日本は遺憾ながら日本の利益を保護する手段を執らざるを得ない」
という決意を述べ、同時に次の要求をする。

第一に、日朝修好条規第1条中の「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有す」という主義を拡大し、清国と朝鮮間の宗属関係を総て清算するっつう要求。

ただ、8月15日のエントリーの1894年(明治27年)7月1日発『電送第270号』で、「日本の提議にして独立及び擾乱の予防を基礎となし、属邦論は之を度外に置くときは、清国政府に於て之を受理するの意嚮ありといへり。右の事情なるが故に、本問題を挙げて、或は直接に各国政府との間に容易ならざる外交上の葛藤となるも計られず。」とか言われてたけど、朝鮮に向かって言うんなら特に問題無いっしょ、と。

第二に、最恵国条款によって、清国政府や清国人に与えている権利・特典(朝鮮国内で朝鮮人を裁判する権利や電信架設等)を日本の要求すること。

その第1及び第2の要求の実行を保証するまで、京城や王宮の門を守るっていう名目での強迫的手法については、甲案の方と手法的に同じ。

ただし、日朝の交渉事件で未決のものは、通常の談判として別途提出することでオッケー、と。
なぜならば、この時に提出する要求ってのは、強迫の材料にするためだけのものなんで、もし朝鮮政府が改革を行うなら、必ずしも提出する必要がないからだ。

この甲案・乙案は両方とも多少例外的な事項だけど、このような例外の処断を行わなければ、良い結果を収められる見込みがない。
ただ、甲案は改革の目的を貫徹するためには都合が良いけど、あまりに例外に走りすぎてる気がするし、乙案は日本に一応の口実があるけど、改革っていう目的からは齟齬する。
しかし、これも改革を迫る一手段に過ぎないんだから、寧ろ責められる可能性の少ない乙案の方が良いんじゃないかと思う。

これは、目前に差し迫った事件のため、この書簡が着いたら直ぐ何らかの電訓よこせ、と。

つうか、いつから目的が「改革」になったんだよ!(笑)


ってところで、一つしか史料やってませんが今日はここまで。



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連載100回目だよー。
東学党の乱から通算すると214回。
俺、馬鹿じゃないのかと思う事がたまにある。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/2 明治27年6月28日から1894〔明治27〕年7月15日(レファレンスコード:B03030206200)』から見てきたいと思います。
54画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電受第395号』より。

Mutsu
Tokio

At an interview 七月九日 総理衙門王大臣 declared that Chinese Government would not enter into negotiation until Japan withdrew her troops from Corea because Tientsin Convention required immediate withdrawal of troops on the suppression of disturbance and if China and Japan detained troops there was danger that other powers might claim right to do the same.
The effort of British Minister and myself has failed to induce them to make further proposals.

Komura
7月9日の会談に於いて、総理衙門王大臣は、日本が軍隊を朝鮮から撤兵するまで、清国政府は交渉に入らないと宣言した。
天津条約は、騒擾の鎮圧による早急な撤兵を要求しており、もし清国と日本が軍隊を駐留させれば、他の列強も同様の事をする権利を主張するかも知れない危険があるためである。
さらなる提案を行うよう彼らに勧めるイギリス公使と私の尽力は、失敗に終わった、と。

9月15日のエントリーの1894年(明治27年)7月5日発『電送第299号』で、協議が始まったとしても日本の提案を拒否った事を根拠に、清国の提案を拒否って聞くだけにしろっつう訓令も出てましたが、それ以前の問題に。(笑)

suppression of disturbance」の解釈に関して、見解の相違があるにも拘わらず、一方的な撤兵要求って。
イギリスの努力とか、台無し。(笑)

つうかね。
日本は良いんだよ、別に。
朝鮮の内政改革、単独で進めるだけだから。(笑)

で、次で7月9日の史料は最後です。
多分。

『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』より。
29画像目が英文、30画像目が訳文になってますので、一緒に見ていきましょう。
ロシアの西公使から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電送第396号』より。

Mutsu
Tokio

Chief of the Asiatic Department has informed me that Russian Government are satisfied with your reply and sincerely desire our peaceful arrangement to be made with China as soon as possible.
Instructions will be sent to 在日本露公使 and Russian Minister to China in the above sense.

Nissi


亜細亜局長本使に告げて曰く、露国政府は貴大臣の回答に満足し、可成速に清国と平和の取極めあらん事を冀望せり。
在日本露国公使及在清国露国公使へ、其旨を訓令に及べりと。(本文は特に秘密を要し候)
そのままですね。

ロシアのアジア局長が西に向かって、「ロシア政府は陸奥の回答に満足し、なるべく速やかに清国との平和の取り決めがなされる事を希望する。
在日本ロシア公使と在清国ロシア公使にその旨訓令した。」と述べた、と。

んー、ロシアがこの決定に至った背景って、どんなんだったんだろう?

さて。
次からは7月10日の史料に入ります。
まずは、軍用電信線に関する話題から。
『日清韓交渉事件ノ際二於ケル軍用電線架設関係雑件/1.軍用電信線架設ノ件(レファレンスコード:B07090434500)』の20画像目から。
陸軍の兵站総監川上操六から陸奥への、1894年(明治27年)7月10日付『発第10号』より。

今般京城・釜山間に架設せんとする電線は、当時完成の急速を要せし為め、其幾部分は朝鮮国用線を利用する目的を以て、大邱より迂回して清州に至る線路を採用し、之を両電線架設枝隊に訓令せしと雖も、目下の形勢に於ては必しも完成の急速を要せざるを以て、其迂回線を利用せむよりは、将来兵略上に公算多き路線、即ち兵站線路に適する道路に沿ふて架設するの有利なるに如かず。
因て、曩の計画を改め、釜山・大邱・尚州・忠州を経て京城に至る直線、俗に中路と称するものに沿ひ架設致す事に相成、別紙之通両枝隊司令官に訓令致候間、其旨大鳥公使へ御通示相成度、此段及御移牒候也。


第1電線架設枝隊司令官に与ふる訓令

一.京城・釜山間の電線架設に付、我邦と朝鮮国との協議調ひ架設に着手するに至らば、曩に与へし訓令に記載せる電線架設線路を左の如く変換すべし。
釜山・大邱・尚州を経て鳥嶺を越へ忠州に至り、此地に於て第2枝隊の線と連絡すべし。

二.釜山・大邱間に要する材料は追送す。
故に、携行せし材料は大邱・忠州間に使用すべし。


第2電線架設枝隊司令官に与ふる訓令

京城・釜山間の電線架設に付、我邦と朝鮮国との協議調ひ架設に着手するに至らば、曩に与へし訓令に記載せる電線架設線路を左の如く変換すべし。
京城より廣州を経て忠州に至り、此地に於て第1枝隊の線と連絡すべし。
之に要する材料の不足は、追送すべし。
曩に与へし訓令」ってのは、6月2日のエントリーの1894年(明治27年)6月27日付『機密受第860号』に別紙として付いてた訓令かな?

その訓令では、釜山→大邱→星州→秋風嶺→清州っていう経路で電線を架設し、釜山・大邱間は「成るべく朝鮮国用在来の電線を利用し」だったわけですが、朝鮮の電線利用を止め、大鳥と朝鮮の協議が整い次第、釜山→大邱→尚州→鳥嶺→忠州→廣州→京城という経路で直線的に架設することにして、その変更に関する訓令をしたって話ですね。
で、各枝隊には、朝鮮の電線を利用するはずだった区間について、その材料を追加で送る、と。

つうか、「目下の形勢に於ては必しも完成の急速を要せざる」って、すぐにでも開戦するっていう緊張感からは遠のいたのかな。


ってところで、今日はここまで。



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日清戦争開戦まで(五十)



月曜日の休日が増えたこともあって、土日とかあんまり考えずに、2日に1回更新ペースにしようかなと、うっすら考えているdreamtaleです。
ども。

さて、7月9日の史料の続きに入る前に、1件7月8日の史料で書き忘れてたのがありまして、今日はこれからやりたいと思います。
史料は、アジア歴史資料センターの『日清戦役ノ際清国上海及韓国仁川港二於ケル各国居留地局外中立ノ儀二付交渉一件/2.仁川港局外中立ノ件(レファレンスコード:B07091143600)』の25画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)7月8日発『電受第391号』。

Mutsu
Tokio

(20) Diplomatic Corps met 七月七日 at 統理衙門 by suggestions made by the British Consul General to discuss the question of placing 仁川 outside perils of military operations the discussion then has gone beyond proper sphere it was then moved to place all open ports and cities including 京城 and also way from 仁川 to 京城 in the same position.
I said that such motion cannot be decided without instructions and all have agreed to my views finally the resolution was carried to meet 七月十日 to discuss 仁川 only.
I shall not agree to the question unless following conditions accepted, 1st Japanese soldiers ammunition shall be freely shipped and landed at 仁川, 2d necessary Japanese soldiers shall be posted in the Japanese settlement, but they shall refrain from offensive action dangerous to safety of the port in general.

Otori
仁川を軍事作戦の危険の局外に置く問題を協議するため、イギリス総領事が提案したとおり、7月7日に統理衙門で外交団が会合した。
しかし、話し合いは元々の争点を逸脱し、開港場と京城を含む都市の総てと、仁川から京城への道路もまた同様の位置に置く提案がされた。
私は、そのような提案は訓令なしには決定できないと述べると、総ての者が私の意見に同意し、最後に7月10日に仁川についてだけ検討するために会合する決議が可決された。

私は、以下の条件が受諾されねば、その問題に同意しないだろう。
1.仁川での日本兵と弾薬の自由な船積みと陸揚げ。
2.日本人居留地内への必要な日本兵の配置。
しかし、港の安全を脅かす、攻撃的な行動は控えるだろう、と。

仁川港中立問題の話ですね。
つうか、「開港場と京城を含む都市の総て」を戦時局外中立だと、釜山とかにすら入港できなくなるという。(笑)

ってことで、忘れてた史料お終い。
7月9日に史料に、戻ります。

9月5日のエントリーでオーストラリアの臨時代理公使から日本の行動の主な理由と目的について照会があり、9月10日のエントリーで各国公使に経緯が説明されてましたが、その関係。
『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/10 明治27年6月29日から明治27年9月8日(レファレンスコード:B03030207000)』の19画像目。
9月5日のエントリーでは「佐藤(?)」って言ってましたけど、大山綱介でしたね。
オーストラリアの大山臨時代理公使から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日付『機密信第22号』より。

朝鮮に関する形勢問合せの件

墺国新聞紙は朝鮮に関し、日清両国の形勢危急切迫なる趣掲載致し候に付、本月3日別紙写甲号之通御問合せ致候処、去る6日別紙写乙号の通御回電被下、本件目下の状勢能く相分り致多謝候。
日清の葛藤に就き、欧米諸国は自己の利害に従ひ、政略上同意或は反対を表すべきこと勿論に候得共、我帝国は東洋に於ける開化の主動者と見認められ居候に付、政略上の反対者と雖ども我が活溌なる挙動には、内心賛成を表し居る義と愚考致候。
何卒朝鮮に於ける帝国の威権、倍々増進致候様祈居申候。
此旨申進候。
敬具
オーストラリアの新聞が、朝鮮に関して日清両国の形勢が危急切迫しているという記事を掲載したため、7月3日に別紙甲号で問い合わせたら、7月6日に別紙乙号の通り電報してくれて、状勢良く分かったよ。
サンキュー。

日清間の対立について、欧米諸国は自分の利害に従って、政略上の同意や反対するのは勿論だけど、日本は東洋の開化の主動者と見られてるわけだから、政略上の反対者でも日本の活発な挙動には、内心賛成してると思う、と。
何、そのウリナラマンセー。(笑)

で、朝鮮における日本の権威が増進するように祈ってる、と。
つうか、これ届くの約2ヶ月後の8月29日なんですが・・・。

文中の別紙甲号については、勿論9月5日のエントリーの1894年(明治27年)7月4日発『電受第367号』のこと。
別紙乙号の方は、電文番号が不明ですが、内容的には8月27日のエントリーの上海の大越領事に対する1894年(明治27年)7月2日発『電送第281号』と全く同内容ですね。
つうか、いつ送ったんだろ?

続いては、『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第二巻/1 甲午〔明治27年〕5月初9日から明治27年7月9日(レファレンスコード:B03030206100)』から。
28画像目右側。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電受第393号』より。

Mutsu,
Tokio.

How is the talk between 小村 and British Minister going on in regard to our proposals on Corea?
What attitude China taking now?

Otori
朝鮮に関する日本の提案について、小村とイギリス公使の間ではどのような話が進んでいるのか。
現在清国は、どのような態度をとっているのか。
それは本国でもまだ良く分かってないんじゃないかな?

続いて、同じく28画像目の今度は左側。
天津の荒川領事から陸奥への、1894年(明治27年)7月9日発『電受第394号』。

Mutsu,
Tokio.

Waeber, former Russian Representative in Corea will leave here for Seoul 七月十日 and Russian Minister to China still continues to remain here.
He will leave for Peking in a few days.

Arakawa
元在朝鮮のロシア代表者のウェベルは、7月10日に京城に向けて出発するはずであり、在清国ロシア公使は未だここに留まり続けている。
彼は、数日以内に北京に出発するだろう、と。

9月24日のエントリーの1894年(明治27年)7月7日付け『機密第30号信』で、7月6日に北京を出発してたウェベルですが、7月10日に京城へ出発予定らしい。
つうか、やっぱり北京から天津って、そんなにかかるのか・・・。

ってところで、今日はここまで。



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