前回 は、密使事件の3ヶ月前に起きた李儁の事件に関する史料を見た。
その続きからいこう。

1907年(明治40年)5月9日付『機密統発第30号』。

在浦潮野村貿易事務官より、韓国人李儁及羅有錫等渡航の件に関し、別紙写の通り通報有之候條此段及通牒候也。
この別紙として添付されているのは、1907年4月29日付『機諸第4号』である。

元韓国官吏其他民間の所謂志士と称する徒輩等にして、祖国現状に憤慨し、如何かして我対韓政策に妨害を試みんと、北韓及当地方面に散在し互に気脈を通じつつある者多数なるを以て、平素彼等の出入行動に対し注意を怠らざりし処、今般元評議院検事李儁に議官羅有錫の両名、京城より当地に渡航し来り居ることを発見致候。

彼等は目下当地に滞在し、両三日以前には、当地韓人の経営に係る小学校を参観し、生徒を集めて一場の演説を試み、祖国衰亡の現状を説き、以て他日必らず隣邦の羈絆を脱し独立を全ふする様努めざる可らざる旨、激励したりとのことに有之候。
尚ほ、同校教員等も頻りに彼等を歓待したる由にて、目下韓国人間に多少の勢力を有するものの如く思考せらるるを以て、今後彼等の行動に対しては、多少の注意を要する次第と被存候條、目下尚ほ内偵中に有之候。
"元"ということは、やはり罷免されたようで。
まぁ、当たり前だが。
それにしてもわざわざウラジオストックまで行って、「小学校」で反日教育ねぇ・・・。


次の史料が、再び在浦塩貿易事務官の野村基信による報告、1907年(明治40年)5月24日付『機密第6号』である。
ここにおいて、李儁と李相卨(咼の上にト)が同一史料上に現れる。

元評議院検事李儁、議官羅有錫、間島管理司李範允等が、当地にありて頻りに在留韓人間に排日的思想を鼓吹しつつあることに関しては、客月29日付機第4号及び本月18日機諸5号を以て及報告候処、今般同人等協議の末、元学部協弁李相卨(咼の上にト)なる者の北間島に在りて学校を私設し、子弟を教育しつつありしを当地に呼寄せ、更に謀議を凝らしたる結果、韓国の将来に関し、直接露国政府に向ひ嘆願する為め、委員簡派の議を決定し、前記李儁・李相卨(咼の上にト)及当地の富家車錫甫の子某の三名は、愈々去るに21日を以て当地出発、露都に向ひたる由に有之候。
其嘆願の要旨なるものを聞くに、近時韓国に対する日本国の圧迫甚そく、殊に露国沿海州方面に於ける韓国人は、挙げて日本貿易事務官の権内に属せしめられんとするの勢あり。
左れば、韓国人の保護取締開始に関し、今後日本貿易事務官より露国政府に対し何等照会有之たる場合には、必らず拒絶せられ度しと云ふにありと云ふ。

尚、派遣委員は万国平和会議開催を機とし、海牙に赴き、韓国の独立の為め、列国全権委員間に運動する所あらんとする由に有之候。
此重の運動たる素より児戯に類し、其愚や及ぶべからずと雖、又以て当地方面に於ける排日派の消息の、一端を示すに足るものと被存候に付、御参考に及報告候。

敬具
文中、29日付『機第4号』は前述の李儁及羅有錫等渡航の件、18日『機諸5号』は元間島管理司李範允に関する件である。
李範允については2月27日のエントリー6月5日のエントリー でも取り上げてきた。
一度整理して紹介せねばならない人物ではあるが、今回は話を先に進める。

元評議院検事李儁、議官羅有錫、間島管理司李範允等が協議の末、北間島で学校を開いていた元学部協弁李相卨(咼の上にト)を呼び寄せた、とある。
その後、李儁、李相卨(咼の上にト)、車錫甫の子供がロシアへ向かう。
また、この時に海牙(ハーグ又はヘイグ)万国平和会議に関する報告が為されている。

ここで私が疑問に思っているのは、ハーグ密使の所持していた委任状の日付である。



大韓光武11年4月20日。
1907年4月20日である。
この時点で、李儁は兎も角として、北間島にいた李相卨(咼の上にト)、ロシア領内におり未だ名前の出てこない李瑋鐘が、委任状に名前を記載されている事になる。
条約書類発見と玉璽偽造事件 を見てきた私などは、当然思ったりするわけである。

これ、本物の委任状ですか?


今日はこれまで。



ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)