何っつうか、マンネリというか飽きてきたというか・・・。
まぁ、王宮占拠事件まであとちょっとなので、気力を振り絞りましょう。(笑)

さて、今日はアジア歴史資料センターの史料から。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/4 明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日(レファレンスコード:B03050308400)』の38画像目。
大鳥から陸奥への、1894年(明治27年)7月15日付『機密第127号』より。

内政改革協議の為め朝鮮政府より撰定されたる3名の委員と会同の件

当国内政改革に付、我勧告の照会に応じ、当政府に於ては内務督辨申正熙、同協辨金宗漢、曹寅承の3名選定せられたる旨外務督辨より公然通知有之候に付、本月10日午後6時より右3名と会同し(会同の場所は南山麓なる老人亭と称する小亭なり)、先づ彼等の委任権限相慥め候処、彼等は政府の訓命に依り改革に関し日本公使の意見を細聴し、自分等の意見に附して之を政府諸大臣の前に申出て、諸大臣と共に之を大君主陛下に奏上して裁奪を仰ぐに止れり。
自分等は、公使の勧告を取捨折衷して改革を断行する職権なしと申出候に付、一応其委任権限の不充分を咎め、之を斥けんと相試み候得共、顧みて本件の性質を考ふれば、本と勧告に止るものなれば、我より強て充分委任権を有せる官員と会商せんことを請求するは、聊か不穏当に有之のみならず、当国に於て内政改革は実に大難題なれば、国王と雖ども断行覚束なく、況んや2、3の官員に断行の責任を負はしむることは到底能はざるものを迫求する者に付、好結果を得るの見込無之。
加之、斯る事柄を争ひ居る間に徒に日数を経過するの恐れ有之候に付、暫く権限論を措き、別紙甲号改革綱目を提出して逐條説明に取掛り申候。
然るに、其日は点灯後凡1時間程説明したるも猶ほ其半に達せざるに付、翌11日午後1時より再び同処に会同して残余の各條に説明を加へ、終りて別紙乙号限期実行案を提出して協議に及び候処、期日を限り実行を促す事は、内政干預の嫌あり。
若し干預せらるるとならば、国を以て斃るる迄も従ふ能はずとて、委員中頻りに不同意を相唱ひ候得共、日期を限り実行を促すも勧告なり。
決して干預にあらず。
其勧告を聴くと否とは貴政府の権内に在りと云ふ趣意にて説明相与へ候処、委員等も漸く納得して乙号案を収め帰り候。
抑々本官が最初改革案提出の際、我若し漠然之を提出して彼は漫然之を受け、口に改革同意を唱へて実効挙がらざるときは、我勧告は徒労に属するのみならず、切上方に困難すべしと懸考したるに付、改革箇條の中最も緊急を要するもの数條を掲出し、3日内に之を議定して10日内に実行す可し。
朝鮮政府若し実行し能はずとならば、我勧告の拒絶したるも同様なり。
我は之を以て勧告を拒絶せられたりと見做す可しと言放ち、更に第二の手段に取掛るべき考案にて、故らに期限を定めて施行を促したる者に有之候。
将又、右提案後内部の形勢を探察するに、大略別紙丙号探情書の通りにて、国王には改革に鋭意せらるる傾あるも、諸大臣は兎角躊躇して王命を奉承せざるが如くに被推察候。
右は申迄もなく、彼等因循姑息にして有為の気象に乏く、而して外は支那を恐れ内は閔氏を憚る結果に外ならざる義と被考候。
委細は別紙探情書にて御承知相成度し。
扨昨14日は提案後3日目に相成候に付、書面を委員に送り面会相求候処、公務の為め面会の請求に応じ難き旨申参り候に付、推返し別紙丁号の通り我勧告に対し朝鮮政府の採否如何を相尋ね候処、同戊号の通り我勧告は朝鮮政府の意見と符合し、感謝に堪えず、委細は本日会同の際説明す可き旨申参り候。
猶ほ、本日会同の模様は更に可申上、不取敢此段及上申候也。

追て別紙甲乙号は、本月9日付機密第121号73信に附属候間、此に附添不止候。
前回の1894年(明治27年)7月14日発『電受第421号』でも見たように、朝鮮の内政改革について内務督辨の申正熙と、内務協辨の金宗漢、曹寅承の3名が委員として選定され、外務督辨からその旨公式に通知があったわけです。

で、7月10日の午後6時から老人亭で3人の委員と会い、まず始めに委員が委任されてる権限について確認したところ、大鳥の話を聴いて自分たちの意見を付して諸大臣に申し出、それを高宗に奏上して裁可を仰ぐってだけ。
自分らで大鳥の勧告を取捨選択したり纏めたりして、改革を断行する職権はないと言ってきた、と。
子供の使いというより、伝書鳩?(笑)

で、一応その権限が不十分な事を咎めて話にならねぇよと言おうと思ったけど、今回の件の性質を考えれば、元々勧告するだけのものなんで、大鳥から強いて十分な委任権を持つ者と交渉する事を請求するのはやや不穏当なだけでなく、朝鮮では内政改革は非常に大難題なんで、高宗であっても断行は覚束なく、まして2~3の官員に断行の責任を負わせる事は、到底できないものを迫り求めるようなもので、好結果を得る見込みがない。

えーっと。
高宗でも断行は覚束ないって・・・。
しかも、「2、3の官員に断行の責任を負はしむることは到底能はざるものを迫求する者」て。
いざ改革を進める段になったらどうすんだよ、と。(笑)
つうか、改革できないの分かってるんじゃん。(笑)

それに加えて、権限について言い争ってる間に無為に日数を経過する恐れがあったので、ひとまず権限論を棚に上げて別紙甲号のとおりに改革綱目を提出して、逐条説明に取りかかった、と。
最後の追伸にあるとおり、別紙甲号については10月3日のエントリーでやった、1894年(明治27年)7月9日付け『機密第121号 本70号』の別紙甲号ということになります。

ってことで、説明始めたのは良いんだけど、1時間ほど説明してもまだ半分にも達しなかったので、翌11日に再び老人亭に集まって残りの各条の説明をして、説明が終わったところで別紙乙号の期限付きの実行案を出して協議したところ、期限付きで実行を促すのは内政干渉の嫌いがある。
もし干渉するなら、国が潰れても従う事はできないと述べ、委員達は頻りに不同意を唱えたけど、期日を区切って実行を促す事も勧告であり、決して干渉ではない。
その勧告を受け入れるかどうかは、朝鮮政府の権限内の話でそ?と説明したら、委員もようやく納得して別紙乙号案を持って帰った、と。

別紙乙案ってのは、内容的に10月6日のエントリー10月8日のエントリーでやった別紙丙号で良いのかな?
つうか、あんだけの分量説明するのに、1時間で半分もいかないって・・・。

で、そもそも大鳥が最初に改革案を提出した時に、日本側が漠然とこれを提出して朝鮮側で漫然とそれを受け取り、口では改革に同意しながら実効が挙がらなければ、日本の勧告は徒労に属するだけでなく、切り上げ方にも困るだろうと思ったためで、改革案の中で最も緊急を要するものを数条掲げて、3日以内に議定して10日以内に実行しろ。
もし実行できないとなれば、日本の勧告を拒絶したも同然であり、日本はそれを以て勧告を拒絶されたものと見なすと言い放ち、更に第二の手段に取りかかる考えで、わざと期限を付して施行を促したんだよ、と。

第二の手段って何かしら?
つうか、例え改革をやる気になっても、実効が挙がるとはとても思えない件。(笑)

さらに、改革案の提出後に朝鮮政府内部の形成を見るに、大体別紙丙号探情書のとおりで、高宗は改革を熱心に行おうという傾向があるけど、諸大臣は兎角躊躇して高宗の命令を受け入れないように推察される。
これは、言うまでもなく彼らが古い慣習に従うばかりで、新しく何か始める気力に乏しく、外は清国を恐れ、内には閔氏を憚る結果に他ならないと考える。
詳細は別紙探情書で。

7月14日が提案後3日目になるんで、書面を委員に送って面会を求めたところ、公務のため面会の請求に応じがたいって言ってきたので、折り返し別紙丁号の通り日本の勧告に対する朝鮮政府の採否はどうなったか尋ねると、戊号の通りに日本の勧告は朝鮮政府の意見と符号し、感謝に堪えず、詳細は今日会同したときに話すって言ってきた。
今日の会同の模様はまた報告するので、取りあえずここまで上申しときます、と。

別紙丁号が、12月5日のエントリーでやった大鳥の返事に当たる1894年(明治27年)7月14日付け文書。
戊号が同じく12月5日のエントリーの1894年(明治27年)7月14日付けの申正熙の返事となっています。

別紙のうち残る丙号探情書については、次回取り上げたいと思います。


ってことで、今日はここまで。


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